パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→「敗者の道」
No.50 (1999年4月)
「敗者の道」
〜怒りの制御は幸福をもたらす〜
A・スマナサーラ長老

 怒りっぱなしの人生はいやだなあと、思わない人はいないでしょう。明るく楽しく、みんなと仲良く生きることができればなんて幸せなのでしょう。それはすべての人間の希望です。怒らずに明るく生きるということは個々人の心次第ですので、努力さえすればどんな人にでもできないことはありません。理屈はそうかもしれませんが、怒ることなく完全に明るく生きていられる人は、世の中にほとんどいないのではないでしょうか。

 「怒りっぱなしの人生」をもう少し詳しく理解してみましょう。これは、怒り、激怒、憤慨、逆鱗、敵意などのわかりやすい意味だけではありません。このような感情は、頻繁に人を悩ませるわけではありません。仏教の「怒り」(dosa) という言葉は、いくつかの感情を集約してつけた分類名です。怒り、嫉妬、物惜しみ、後悔、憎しみ、悩み、陰気、いらだち、いやな気持ち、落ち着かないこと、焦り、不適応、などの感情を含んだ分類名なのです。このような異なる感情を「怒り」とまとめるのはなぜでしょうか。ここにあげたような感情はどれをとっても、人がその対象を受け入れず、対象に対立している働きであるという点で、共通しているからです。これを「怒り」(dosa)というのです。「怒りのない明るい人生」と仏教でいう場合は、以上述べたようなすべての、対象に対立する感情のない生き方を指しています。

 みんながいい人であるならば、物事がうまくいくならば、自分の気持ちがちゃんと通じるなら、怒る必要はないのです。しょっちゅう怒る人が、よく口にする文句があります。相手が間違っている、いけないことをしている、こちらの気持ちを理解しない、言われたとおりにやらない、悪いことばかりしている、良い人間ではない、自分勝手だ、頑固だ、社会性がない…だから怒らずにいられない、というのです。

 このような文句は、あまりにも、おかしいほど非論理的です。自分の気持ちに合わせて相手が接するならば、人は誰でも怒らないのは当たり前のことです。人間だけではなく動物でさえも、その動物の気持ちに合わせてやると怒らないでしょう。つまり、私が怒らないで明るく生きていられるためには、私に関係のあるすべての人々(生命)が完全でなくてはならないという解釈なのです。さらに強調して言うならば、こういうことになります。私は、すぐ怒ってしまう弱い性格ですが、怒りっぱなしの人生もまたいやなのです。ですから、私の幸福のために、すべての生命が完全に私の気持ちに合わせなさい。私は自分の性格はそのままにしておきたいのです。そんな意味になるのではないでしょうか。このように強調してみると、以上の文句がいかに非論理的かということが理解できるかと思います。

 世界は自分中心に回ってくれないので、自分が世界を回すしか道はないと思います。しょっちゅう怒る自分の弱い心を強くすれば、この問題は解決します。怒らない精神を実践しようとするということは、良い人に対して怒らないのは当たり前のことなので、悪い人に対しても決して怒らないということを実践しなくてはならないということです。悪いといっても「相手が悪い」と自分勝手に思うだけで、完全に悪い人はいません。人の欠点だけを捜す生き方ではなくて、いつでも他人のいいところだけを見いだせるようにしましょう。自分も他人も完全ではないのですから、相手の心の悪いところが見えても、その部分は包容力を持って理解しましょう。あるいは自分にもそういういけないところが、捜せばいくらでもあるということを、その瞬間に思い出しましょう。

 もし、相手が本当に悪くて、悪人としかいいようのない場合は、どうしましょう。理由もなく、自分に害を与える、非難する、侮辱する、攻撃する、自分に対して怒る。また、犯罪者、殺戮者、破壊者、のような人に対しては、どうしましょうか。仏教の答えは、その場合も怒るなかれ、敵意を抱くなかれというものです。相手は無知で、悪いことばかりをなしています。この世でも、何の幸せもなく、苦しんでいます。亡くなってからも、大変不幸になるでしょう。助けたくても助けられない状態です。かわいそうです…と、相手に対して慈しみの気持ちを持つべきです。完全な悪人に対してでも、怒ったり攻撃したりすると、自分も余計な罪を犯して不幸になる「愚か者」になります。悪をなすのは相手であって、自分ではありません。それに腹を立てて攻撃すると、自分も怒りに汚染されてしまいます。相手を攻撃しよう、非難しよう、裁こうと思うと、結局、自分が攻撃され、非難され、裁かれます。相手に自分の手で汚物を投げよう、あるいは炭火を投げようとすると、先に汚れるのは、あるいはやけどをするのは自分であって、相手ではありません。相手が身体をかわせば、汚物は当たらずに被害を受けない場合もありますが、汚物を投げようとした自分の手は必ず汚れます。ということは、我々は他人に対して攻撃したり怒ったりして相手を困らせようとしても、相手はそれによって困る場合も全く困らない場合もありますが、自分が怒りで汚染されて不幸になることだけは確実で確かなのです。そういうわけで、いかなる場合でも怒る人は愚か者であり、人生の敗者です。勝利を得たい人は悪人に対しても怒りません。

 さらに、人のためにつくす人々、苦しんでいる人達を助けようとしている人々、また道徳を守る人々、誰にも何の害も与えない人々は、簡単に世の中から非難されます。いいことをする人に限って無抵抗なため、世の中の攻撃は大変激しいのです。しかしこれだけは、悪人に対して怒ることよりも、もっと大きな最悪の罪となります。自分と人類のすべての幸福を破壊する道なのです。良い人に怒ってしまうこと、これは究極的に危険な生き方だと覚えておきましょう。

今回のポイント

◎経典の言葉
Yo appadutthassa narassa dussati - suddhassa posassa ananganassa
Tam eva bâlam pacceti pâpam - sukhumo rajo pativâtam'va khitto(Dh. 125)
汚れのない人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいはかえってその浅はかな人に至る。風に逆らって細かい塵を投げると(その人に戻ってくる)ように。(Dh.125)
次の法話へ→
HOMEパティパダー巻頭法話→「敗者の道」
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.