パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.52 (1999年6月)
心からは逃げられません
〜悪事は隠し通せないものです〜
A・スマナサーラ長老

 悪事、不正などを行う人は、それらが露見しないようにいろいろと工夫します。しかしうまく隠し通したと安心できるのはつかの間です。悪事は必ず露見します。その不幸な報いから逃げることは決してできません。悪事を隠そうとずるがしこい努力をしますが、その努力が積み重なったところで、残念なことに逆に、悪事は世間に露見してしまうのです。悪事の報いからは、どうして逃げられないのでしょうか。それは、我々の行動を監視している超越的な誰かがいるからではありません。その悪事を行う人が、自分自身で公示するからなのです。生命は心があるから、さまざまな行為をするのです。その心が、欲、怒り、傲慢、憎しみなどの煩悩で汚れてしまうと、行為そのものも汚れてしまいます。それが悪事というものです。悪事を行う心をその本人が持ち続けていますので、悪事の報いからうまく逃げられると思っても、それは大きな勘違いです。死んでまた生まれ変わっても、同じ心を受け継いでいますので、悪事の報いから逃げることは不可能です。ときどき、悪いことをしても不幸にならないように見える人々も見られます。そのような人々は特別に「ツイている」わけではありません。悪事を犯した心を持ち続けていますので、条件の揃った瞬間に、報いの結果を受けることになります。

 悪事を犯しても、不幸な報いだけは避けたいと思うならば、自分の心を捨てる以外、他に方法はありません。しかし、自分の身体から心という機能を捨てられますか。ものごとは変化しながら流れていきますので、その人が死んでしまっても、心は変化しつつ流れていきます。ですから、悪事を行った人々は、不幸な結果を生み出すポテンシャル(潜在的)エネルギーを持ち続けています。悪事の報いから逃れようとする努力は、たんすの中にネズミがいるのに、服をネズミにかじられないようにとたんすの引き出しをしっかり閉めておくことと同じです。ネズミが中にいるので、どうしても服はかじられてしまいます。一向に服を守ったことにはなりません。悪事を行う原因が、心の中にある限り、不幸な報いは必ず返ってくるのです。

 この論理をわかりやすくした昔のエピソードが3つあります。

 地方から、ある出家したお坊様のグループが、お釈迦様に会うために旅に出ました。旅の途中、ある村で托鉢に出かけたところ、火事になった一軒の家に出くわしました。見ているうちに、燃えているわらぶき屋根から火のついたわらが一束、空に飛ばされました。そして不思議なことに、上空を飛んでいた一羽のカラスの首にちょうど引っかかり、カラスは落ちて死んでしまったのです。あり得ないほどの偶然の命中に驚いたお坊様達は、そのわけをお釈迦様に聞こうと決めました。

 また、別のお坊様が舟に乗って、海を渡ってお釈迦様に会いに行きました。するとその舟が、突然動かなくなり海の真ん中で立ち往生してしまいました。何のトラブルも見つからなかったので、船長は「乗員のなかに誰か不幸な人がいる。その人のせいで全員を死なせるわけにはいかない。残酷だが船長の使命を果たさなければならない」と思い、みんなにくじを引かせてみました。すると何回引かせても自分の奥さんに当たってしまうのです。片時も離れるのがいやで船にまで乗せて連れてきていた愛妻でしたが、その奥さんの首に重りをつけて海に沈めたのです。すると不思議なことに舟は動き出しました。それを見たお坊様は、この出来事の説明を釈尊に伺おうと思いました。

 もうひとつ、地方のお坊様のグループが釈尊に合うために旅に出ました。旅の途中で夜になったので、安全な宿を探そうと思い山のなかの洞窟を見つけてそこに泊まることにしました。するとその夜、突然崖崩れが起き、大きな石が転がってきて、洞窟の入り口をふさいでしまいました。村人が必死になって救済活動をしても、石は1ミリも動きませんでした。ところが1週間経ったとき、その石は自然に落ちてしまいました。このお坊様たちもこの不思議な出来事を釈尊に伺おうと決めました。

 お釈迦さまは、3つのエピソードを、このように説明しました。

 「過去世で、ひとりのお百姓がいやになるほど怠けたがる牛一頭を飼っていました。ある日、田んぼの仕事をさせようと、いくら努力してもこの牛は一向に動きませんでした。腹が立った百姓は牛を脅すために、首にわらをかけて火をつけたのです。後に、そのけががもとで牛は死んでしまいました。お百姓さんはその罪で、地獄に落ちて苦しみ、それからカラスに生まれ変わり、火のわらに引っかかって死んでしまったのです。

 2番目のエピソードですが、過去世で、ある女性に一匹の犬がなついていました。その犬はその女性のことがあまりにも好きで、わずかな時間も離れようとしませんでした。彼女はこのことで村の子供たちにしょっちゅうからかわれました。恥ずかしくて我慢できなくなった彼女は、犬の首に重りを付けて水に沈めて殺しました。この悪行で地獄に落ちた彼女は、罪が消えたところで人間として生まれ変わり船長の奥さんになりましたが、まだ罪が残っていましたので、溺れて死ぬ運命になりました。

 そして3番目のエピソード。過去世で、ある子供たちのグループが畑で遊んでいるとき、トカゲが走るのを見つけました。つかまえようと追いかけましたが、トカゲが穴の中に隠れてしまったので、子供たちは出口を全部ふさいでしまいました。日暮れになったので、トカゲのことを忘れて家に帰りました。1週間経って、また同じところで遊んでいるとき、ふさいだ出口を見つけてトカゲのことをはっと思い出しました。そして穴を開いてトカゲを逃がしてあげました。洞窟に閉じこめられたその比丘たちは、過去世でトカゲをいじめた子供たちでした。」

 この3つの物語は、悪事の報いからは決して逃げられないという意味で、仏教の国々では子供たちによく話して聞かせます。
今世で悪いことをした覚えがなくても、不幸に出会う人もいる。悪いことをしているのに、楽に生きているように見える人もいる。我々の普通の人生の中でも、不幸な出来事にしょっちゅう出会ったりもする。悪の報いからは逃げられないので、常に善行為をするよう、努力した方が安全だと思います。

今回のポイント
◎経典の言葉
Na antalikkhe na samudda majjhe -na pabbatânam vivaram pavissa,
Na vijjati so jagatippadeso - yatthatthito muñceyya pâpakammâ(Dh. 127)
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所はない。(Dh. 127)
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