パティパダー巻頭法話
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No.55 (1999年9月)
言葉は核燃料か
〜感情混じりの言葉は核廃棄物です〜
A・スマナサーラ長老

 人間の言葉は、核燃料だと思ってください。核燃料だといえば、いちいち説明しなくてもおわかりになるだろうと思います。現在、我々が必要としている膨大なエネルギーは、核燃料でも使わないとまかなえません。限りなく危険だと知りながらも使用しています。最先端で最高の技術を使用しているので、危険性はまったくないと言いますが、たびたび事故が起こります。7月12日、敦賀原子力発電所でも冷却水漏れ事故がありました。いくら注意しても、いくら気をつけても、事故は起こるものです。人間の知識・能力が完全なわけでもなく、人間が作っている機械も、希望通りに動いてくれる完璧なものではありません。人間は判断ミスを起こしやすいものだからと、昨今何でもコンピューターに任せる傾向がありますが、機械であるコンピュータ自体がおかしくなるケースもたびたびあります。要するに、「絶対安全」という言葉は、結局は使えないということです。

 核燃料はたとえ話であって、今月のテーマは「言葉」です。言葉なしに人類は生活できません。文明の発達とともに言葉も発達してきました。言葉の少なかった昔々は、言葉によるトラブルも少なかったことと思いますが、言葉自体が文化として巨大化している現在は、トラブルの方も巨大化してきています。昔は、互いに話し合っている時、相手を中傷することを言ってしまって問題が起きた場合もあったでしょうが、そのとき2人の間で解決すればよかったのです。今は、国会など公の場、またマスコミなどで、ちょっと言葉一つすべらせただけでも、大変な問題が起きてしまいます。話を面白くしよう、文章を読みやすくしようと思って、軽い気持ちで入れた言葉が、結果として名誉毀損で訴えられる可能性もあります。所沢のほうれんそうが基準以上にダイオキシンに汚染されていると、興味深く報道しようとしたがために、そのテレビ局は今、損害賠償で訴えられています。ダイオキシンなどの汚染は地球スケールでどこにでもありますが、その言い方次第で大きな問題になってしまいます。

 人間の知識、思考、コミュニケーション、娯楽、経済活動のすべてが、言葉によって成り立っています。昔は「しゃべる」だけでしたが、今は「書く・読む」文化の方がもっと強力です。ですから我々は、原子炉のたとえと同じく注意深く言葉を扱わなくてはならないのです。核燃料の場合は安上がりの膨大なエネルギーだという側面だけを考えて行動すると、放射能が半永久的に存在し続け生命を破滅させ続ける巨大な危険物であることはつい忘れてしまいます。言葉の場合も、似ているところがあります。私たちは、言葉というのは、単なる情報伝達物だと思って自由自在に使っています。でもいにしえの昔から言葉は、人の「感情」を伝達するために現れたものです。今も、言葉はその特色を持っています。科学的な研究論文であろうとも、文章の書き方、言葉の使い方、読みやすさ、おもしろさなど感情的な部分は、強い影響力を持っています。科学者は、新しい単語を作るとき、美学的な側面も考慮します。

 人と人がぶつかり合って、苦しみやトラブルなどを作るのは、感情のレベルです。知識のレベルでは、トラブル、ぶつかり合いは生まれません。しかし知識を「語る」場合は感情が入り込みますから、対立が生まれてしまいます。知識のみで話し合う場合、感情さえ入らなければ、極端な意見を持つ同士でもダイアログ(対話)が成り立ちます。たとえば、イスラエルのユダヤ人対パレスチナ人、アイルランドのカトリック教徒とプロテスタントの人々、ユーゴスラビアのアルバニア人とセルビア人、インド半島のパキスタン人とインド人、北朝鮮人と韓国人などの間でも、対話はいつでも可能だと思います。なぜそれができず、互いに憎しみ合っているかといえば、それは言葉と感情がいつも不可分状態になっているからです。

 感情の世界では愛情、憎しみ、傲慢、誹謗中傷、嫉妬、怒りなどの黒いエネルギーが重要な役割を果たしています。慈しみ、いたわり合い、助け合い、心配などの白いエネルギーもありますが、ごく稀にしか機能しません。ですから、言葉というのは常に相手を傷つけやすいものなのです。どうしても言葉を使用したいと思うならば、それは核燃料だと思わなくてはならないのです。自分が不注意で言った言葉で相手が傷ついたなら、相手も言葉を返します。その場合は、相手も確実に感情で語るので、言われた言葉よりもより強く相手を中傷してしまいます。それに対してまた、反応の言葉が返ってくる。どんどん、醜い憎しみと争いが現れてきます。核燃料の連鎖反応と似ているのではないかと思います。中性子を吸収し核分裂さえ起こさなければ、ウランもプルトニウムもただの物体で何の危険もない。言葉の場合も、悪い感情さえ入っていなければ何の危険もない。自分が苦しみたくない、憎しみ合いたくない、喧嘩したくない、幸せに楽しく生きていたいと思うならば、自分が放つ言葉に絶対に黒い感情が入らないよう、注意した方がいいと思います。また、他人の感情混じりの言葉を聞くと、連鎖反応で、すぐ自分の心にも黒い感情が生まれるのは自然なことですが、そのときも、何を聞いても、感情が発生しないように注意した方がよいと思います。鐘は指で鳴らしてさえすごい音がしますが、もし鐘が割れたなら、鐘つきで強くたたいても音らしい音は出ません。心も、他人の感情混じりの言葉に対しては、割れた鐘のように対していた方が平安な心が作れます。

今回のポイント
◎経典の言葉
Mâvoca pharusam kañci - vuttâ pativadeyyu tam,
Dukkhâ hi sârambha kthâ - patidandâ phuseyyutam. (Dh. 133)
怒りを含んだ言葉は苦痛である。報復があなたの身に至るであろう。(Dh. 133)
Sace neresi attânam - kamso uphato ythâ,
Esa patto'si nibbânam - sârambho te na vijjati.(Dh. 134)
こわれた鐘のように声を荒らげないならば、あなたは安らぎに達している。
あなたはもはや、怒りののしることがないからである。 (Dh. 134)
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