パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.6 (1995年8月)
「真実の見つけ方」
〜頭だけでは何も掴めない〜
A・スマナサーラ長老

 釈迦尊と同時代である宗教の開祖ともなったSañjaya(サンジャヤ)という有名な宗教家がいました。 釈迦尊より年が上で弟子たちも多くを数えていたようです。 仏教で一般的に言うところの六師外道(ろくしげどう)のひとりです。 現在、サンジャヤが遺した直接の文献は存在していませんが、パーリ経典に引用された言から忖度(そんたく)してみると、彼は『智恵、知識、認識とは不可能、あるいは徹底的に不確定なものである』と説いていた形跡が(うかが)われます。 ということは、彼には「不可能、不確定」ということも言えなくなってしまうはずです。 それらもまた「知」を認識させる意味の言葉なのですから。

 『沙門果経(しゃもんかきょう)』にこういうエピソードがあります。 あるときサンジャヤに弟子が「あの世(死後の世界)が存在するか」と訊きますと、サンジャヤは、「存在するとも、存在しないとも私には思えない。 あるとも思えないし、ないとも思えない。 別である(別の次元で扱うもの)とも思えない。 有無の両方であるとも思えないし、有無の両方でないとも思えない」 このように、一種の懐疑主義的な立場からあらゆる認識手段を抛擲(ほうてき)して結論を回避します。 どんな問題に対してもサンジャヤはこいう立場を守り通したようです。  Sâriputta(サーリプッタ)Moggallâna(モッガッラーナ)は釈迦尊の二大弟子として有名ですが、この二人も以前はまたサンジャヤの弟子でした。 とくに知恵者と言われるサーリプッタは真理を求める論客という立場からして、一切の認識手段について限りなく曖昧な立場をとるというサンジャヤのロジックは心地よいものと映っていたに違いありません。

 思考の自由は大いに歓迎されるべきことですが、自由はまたとかくの問題を引きおこします。 一方でとにかく何らかの結論を出さずには済まないという急進的思考に陥る危険と、他方で論理に固執するあまり自分の生き方に何の役にも立たない思考形態に至るという両極端な場合があります。

サーリプッタとモッガッラーナのふたりはのちに因縁法則によって現象が現れてはまた消えていくという仏陀の教えを知って悟りを開きました。

 考え方はたしかにさまざまです。 納得のいくものとそうでないもの、どちらにもとれる、つまり正しいか正しくないかもはっきりしないものがあります。 納得できる、できないの二つを是、非に分ければ四つになります。 どんなに苦労して思考を(めぐ)らせて熟考した結果の結論は、しかし当然のことながら否定される可能性もまた多いのです。 限りのない論とそれに対する限りのない反論の狭間で我々の頭はパニック状態になってしまうかもしれません。 では、真実とはなんですか? と考えだすとその反論もそれこそおうむ返しになってキリがありません。 そうなるとサンジャヤではありませんが、懐疑主義に陥っていくのもむべなるかなというものでしょう。

 「無意味なものは意義があると思い、意義あるものは無意味だと観る。 誤った思考に促われた彼らは真理を獲得しない。 意義あるものは意義があると観、また無意味なものは無意味と観る。 正しい思考(正思惟)に基づく彼らは真理を獲得する」(Dhammapada Nos. 11 & 12)

 懐疑主義や他の思考形態に対して答えた釈迦尊の以上の言葉は当たり前すぎると思われるかもしれませんが、「意義あるものとは何か?」という命題を考察してみないことには、私たちの生活、人生における実践的な価値は見いだせません。 「意義(真理)」という命題は論と反論が両立する認識というカテゴリーで果して理解可能なことでしょうか? 釈迦尊は懐疑主義に対して実践主義の立場をとって考えることを奨励しています。

 私たちの思考・言動を実行する前に三つのポイント・チェックをします。

  1. これを実行すれば自分のためになるか、この世において楽を得られるか、あの世において楽を得られるか、心が清らかに向上するか?
  2. 同じように、他人のためになる行為か?(自分には善い結果となっても他人には悪い結果になる場合と他人に善い結果となっても自分には悪い結果ということも大いにありうる)
  3. この行為は自他ともにためになる行為か?

この三つを注意して実行すれば混乱することもなく、いま実行すべき行為が何であるかが明確になってき、それは確実に行動に移すべきことであることを教えます。 (仏教では思考も行為と見なしますから、誰にも迷惑がかからないから考えたり思ったりすることだけなら自由だろうといって(いたずら)に思考を(もてあそ)ぶことは(いまし)めてください)

 論理や理屈などの思考の遊戯など何の役にもたちはしません。 私たちに必要なのは行為そのものです。 実践の伴わない観念的思考や哲学的考察というポーズをとった書物だけの理論など、それがどれほど高邁な考えであっても無価値です。

 「誰の意見が正しいか、誰の意見が間違っているか]などの議論に無駄に時間を費やすのは愚の骨頂であると、釈迦尊もその経典のなかでたびたび戒めています。

 ところで上記の三つのチェックポイントについて、卑近な例を挙げて考察してみましょう。

 近所の家で火事がありました。 自分がその火事の消化の努力をすることは皆の為になる、つまりチェック(3.)に該当します。
次に、家に閉じ込められた家人を助けに行く、と言うことになると、これはチェック(2.)ということになりますね。
ところが、そうした行為の結果自分が火事でヤケドをしたり、怪我でもしたりしたら、これはチェック(1.)に該当しないことになってしまいます。 そこで、防御服などを用意して助けにいけばその行為はチェック(1.)にも符合して行為は貫徹されることになります。
このように常に三つのポイントを見て、それに見合うような結論を引き出していけば自他ともに為になる行為が容易に実践できることとなります。

 Dhammapada11 & 12偈はSâriputta, Moggallâna両大尊者は懐疑主義者Sañjaya師から離れて仏弟子になって解説を得たことについて釈迦尊が語られました。

人生観としてこう考えてみましょう。 

◎経典の言葉
Sârañca sârato ñatvâ asârañca asârato
Te sâram adhigacchanti sammâsañkappa gocarâ (Dhaoapada N0. 12)
意義あるものは(真実)意義あるものとして知り、無意味なものは無意味だと知る人々は正思惟に基づいているから真実を獲得する。
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