パティパダー巻頭法話
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No.60 (2000年2月)
身なりで心が読める
〜身なりを重視して中身を忘れてはならない〜
A・スマナサーラ長老

 身なりを整えることはとても大切だという考え方があります。
 見た目がいい加減であるならば、その人のことをあまり大切に思いたくないものです。社会のことを考慮すると、それもその通りではないかと思われます。

 人の中身はそう簡単にはわかるものではありません。でも人を雇うとき、また人とつきあうとき、信頼できるよい人間を相手にしたいと思うのは普通です。
性格的にだらしのない人間を相手にして、その人を立派に育てようと思って行動するのも悪くはありません。

 しかし利益を目的にする会社にとって、また友達を作りたいと思う普通の人間にとっても、これは無理な話です。そのような難易度の高い仕事は専門家に任せた方が無難です。
 普通の人々は、できるだけ信頼できる性格のよい人間を相手にした方が、幸せですし、成功します。そこで起こる問題は、心の中身まで読めるかという問題です。

 一般的には、「人の心なんかわからない。理解できませんよ」とよく言われています。それもその通りだと思われます。
 「身なりを整える」というアイデアはそこから生まれたものです。親のしつけ、教育、習い事などで人の性格は形成されていきます。
そのなかには、他人とのつきあい方、礼儀作法も含まれています。ですから「見た目」で判断しても、人の性格はそれなりにわかります。

 人は、考えて、判断して、行動します。
 ですから行動を見て、何を考えて何を判断して生きている人かを推測できます。
 身の振り方は、心の中身を映す鏡です。それだけで決めることができれば楽ですが、このなかにも考えなくてはならない点が4つあります。それは身なりの良い2つのタイプと身なりの悪い2つのタイプに分けられます。

 人間関係においては、身なりは死活問題ではないので、そこそこ気にしても良いのですが、厳密に気にする必要はありません。
 人を選ぶときは、性格こそが決して欠かすことのできない決定ポイントになります。身なりだけで簡単に人を選ぶことになると、自分にとってとても大事な人を選べなくなる可能性も十分あります。ですから上に述べた4つのタイプを考慮して、・の人を落としてしまわないように気をつけるべきです。

托鉢 我々の文化の中には、身なりについてこれまで述べてきたこととは異なるもう一つの考え方があります。

それは、「おしゃれはあまり意味がない。人の見栄だけだ。高慢か自己自慢にすぎない。必要なのは精神の清らかさだ。ですから表面的な見た目を否定しましょう」のような思考です。  宗教の世界で、この現象はよく見られます。 武道の世界などでも似たような現象があります。

おしゃれもせず、おいしいものも食べないで、質素な生活をしようとする。また、一般人と違う特別な服を着たり、特別な生き方をしたり、特別な場所に住んだり、特別な行をやったりします。
 おもしろいことに、このような人々は見た目より精神のことを重視しているのだと、一般の人が「見た目で」判断します。

やはり見た目の問題は、避けて通れないようですね。

 どんな宗教でも、基本的には、世俗的な生き方、楽しみ方をあまり評価していないのです。人のために命をかけるよりは、神のために命をかける方が価値があると考えています。人生を楽しむよりは、天国の永遠のやすらぎのために苦労する方が美徳だと考えます。仏教でも、世俗的な快楽におぼれてしまったら、どうにもならないと語っています。

 それで一部の人が、精神的な清らかさだと勘違いし、宗教の世界における「身なり」だけを磨くことになります。服装、行儀作法、食事、祈り、読経、行、祭りなどを行うことを必死にがんばります。見た目だけのことにあまりにも忙しくて、心の状況を観察する余裕はひとかけらもなくなります。

 一応、世俗的な身なり論を否定してはいますが、結局やっているのは自分の表面だけを磨くことです。 その人々は、身なり論を誤った「犠牲者」にしかすぎません。 何十年間も行をやったこと、菜食主義でいたこと、などを自慢げにしゃべります。欲も怒りも発生しないような特別な環境で生活するから、自分の心が汚れたことがないと自慢します。(欲と怒りが心の中にないかどうかは、いったん世俗の世界に戻ってみないとわからないことですのに)

 お釈迦様の話をまとめて考えると、「見た目」について以下のようなことがいえます。
 絶対的に必要なものは心の清らかさです。

 完全に心が清らかになったら、見た目が必然的に整います。心は良いのですが、性格はだらしないという矛盾は成り立ちません。
 心を正したい人がそれを難しいと思うならば、身なりを整えるところから始めた方がよいのです。しかし目的は心ですので、上に説明した宗教の世界のように、身なりの犠牲者になってしまうことはないのです。
 たとえおしゃれをしても、おいしいものを選んで食べても、普通の社会で皆と仲良く、楽しく、生きていても、心の清らかな人がすばらしい人です。


今回のポイント
◎経典の言葉
Alankato ce'pi samam careyya - santo danto niyato brahmacârî,
Sabbesu bhtesu nidhâya dandam - So brâhmano so samano sa bhikkhu.(Dh.142)
大変おしゃれに装っても、生き方が整い、心が平安で、立ち居振る舞いが完全で、欲を断ち、一切の生命に対して慈しみの心を持つ人であるならば、彼こそが「バラモン」であり「沙門」であり、「比丘」であります。(本当の聖者という意味です)(Dh.142)
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