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No.64 (2000年6月)
お洒落にかける人生
〜身体は裏切りもの〜
A・スマナサーラ長老

 フェラガモ、ジバンシー、シャネルなどブランド服の'S'サイズが着られるほどのスタイルならうれしい。ナオミ・キャンベルさんみたいに細くて足が長ければ、最高…。しかし美しくなりたいという夢は、ふくらませてもふくらませても、もの足りなく感じるのです。そして、自分がケタはずれの美しい存在になれないことに気づいたら、代わりに、女優や俳優、タレントを追いかけたり、真似たり、仰ぎ見たりして我慢するのです。

 雲の上にある「美」の世界ですが、一般人向けのポピュラーバージョンがあります。それは、高級ブランドの服を着たりアクセサリーを付けること、有名な髪型、流行の化粧、ダイエット、やせるためのスポーツジム通い…。しかし、これらも追求し始めるときりがなく、大変困ることになってしまいます。それは、どこまできれいになっても満足しないからです。

 身体に合わない靴を履いて骨盤を痛めたり、身体に合わない服を着て冷え性になったり血液の流れを悪くしたり、ダイエットのおかげで栄養失調になり内臓をこわしたり、短命になったりします。多数の化粧品を顔に塗ることで皮膚が早く老化して、シワが出たりシミになったりします。美しくなることは悪くないのですが、このように裏目に出ることも少なくありません。

 人は、朝から晩まで身体のことばかり考えています。朝起きたら朝のお化粧、出かけるときはお出かけの化粧、寝るときはそれなりのお手入れ、髪型、髪の色、服の種類、服とアクセサリーのコーディネートなど、さまざまな問題で頭がいっぱいです。豊かだから、若いのだから、きれいだからいいのではないかと、まわりも皆、その生き方に賛成しています。しかし角度を変えて見ると、皆、おかしいのです。頭が変なのです。

 人間として、髪を染める色、唇の色…そういうこと以外、何も考えることはないのでしょうか。人間としての知識、思考能力、想像力、精神力をすべて服を選ぶことや髪型を決めることに使いつくすべきでしょうか。それだけが人生のすべてでしょうか。

 このような生き方をする人は、必ず痛い目にあうことになります。人が歳をとり、若さも輝きも消え、身体が弱くなったとき、今まで身体に手をかけてきた結果が裏目に出ます。いい歳になったとき、昔の派手な生き方は何だったのかと振り返ると、虚しくなるのです。必ず腐り続けていくこの身体の面倒を見ることだけに張り切ると、無知のかたまりのまま人生を虚しく終えることになるのです。

 人類は、身体の面倒しか見ないのです。すべての科学進歩も技術発展も、身体のためです。全ての財産を、身体を守るために使いつくしているのです。身体のために億単位でお金をかけても、身体は老化する、病気になる、弱くなる、苦痛でたまらなくなる、やがては歩くこともできなくなる、体を動かすことさえ苦痛を伴い、不自由になる、寝たきりになって床の中で排泄することになる、他人がおむつを変えたり、食べさせたり、お風呂に入れたりすることになる…。自分にとっては大事な身体でしたが、他人にしてみれば嫌でたまらないものです。重い生ゴミです。それでも一生、身体の面倒だけを見る。身体は確実に自分を裏切る、という事実を無視し、「健康で長生き」というあり得ない夢の話で、自分をごまかします。

 心を育てようとは、一瞬たりとも思いません。立派な人格を作ろうとも思わない。 生きていることを有意義にしようと思わない。 嫉妬、憎しみ、恨み、怒り、欲、無知などのけがれから、きれいになろうとは思わない。さらに、このような話をすると、うるさい、面倒くさい、わからない、関係ない、役に立たない、おもしろくない、うざったい、金にならない、という反応をする。そのうえ、もし精神的なトラブルが起きたならば、超能力者に、霊能者に、インチキ宗教家に、まんまとだまされて、不幸になるのです。

 釈迦尊の時代、インドの王舎城にシリマ(Sirimâ)という名の究極の美人がいました。 彼女を一目見たら、どんな男性の頭も狂ってしまうほど美しかったのです。 人々は彼女と一日だけ遊ぶために、千両のお金を払いました。美を売って生活する生き方がいやになった彼女は、歳をとってから仏教徒になりました。

礼拝 ある日比丘たちが、彼女の家のお布施をいただくために訪れました。 そのなかに、新米の比丘が一人いました。

 その日彼女は、突然の発作を起こして、比丘たちのお世話をすることができなくなりました。食事の後、せめて挨拶だけでもしましょうと、召使いに支えられてふるえながらやって来ましたが、この老婆の身体をちらっと見ただけで、新米の比丘の頭は狂ってしまったのです。

 「今もこんなに美しいのに、若いときならどれほどだっただろう」と思い、それから何も食べられなくなり、寝込んでしまいました。

 その日、シリマは亡くなりました。お釈迦さまは王様に、一週間遺体を放置することを提案しました。 7日目になって、お釈迦さまは比丘たちと一緒に王様のところへ行き、シリマをセリに出してくださいと頼みました。そして千両からセリを始めたのですが、セリ落とす者はなく、最後にタダでもらってくださいと言っても、タダでももらう人はいなかったのです。そこでお釈迦さまが話をされました。

 人を惑わすほどの美しいこの身体も、死んでしまえば卒倒するほどの悪臭を放つ汚物で、気持ちの悪いものなのです。身体のことを自慢し高慢に成り上がり、いろいろと考えて手をかけても、死んだら、誰の身体もただの汚物です。表面的な美に操られ、身体の面倒を見ることだけで一生を終える人の人生はあまりにも虚しいです。

 新米の比丘もシリマの死体を見、お釈迦さまの説法を聞いて、目が覚めました。そして、心をきれいにすることこそ、生きている者の唯一の義務だと理解し、実践に励んだ結果、悟りを開いたのです。

今回のポイント
◎経典の言葉
Passa citta katam bimbam - arukâyam samussitam,
Âturam bahu sankappam - yassa natthi dhuvam thiti.(Dh. 147)
美しく飾り立てている見せかけの身体を見なさい。それは不浄な体液が流れ出す穴だらけです。また病めるものであり、多く心悩ませるものです。この身体は決して永遠ではありません。(Dh. 147)
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