パティパダー巻頭法話
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No.65 (2000年7月)
楽のみを追うと苦を得る
〜死を迎えたとき、自由な心で〜
A・スマナサーラ長老

 容姿について過剰に気にする必要はありません。美しくなるために神経を削ってがんばっても、美というのは個の主観であること、また、自分が「美」だと思うものも他人には違うように見えてしまうことについて、先月お話ししました。美と健康に対しては、ほどほどに気をつければ生きることはかなり楽になると思います。

 人はどれほど美しくても、歳をとるに従い、その容姿は消えていきます。どれほど体力があっても、「時間」という虫が、止まることなく食い尽くしていくのです。自信満々の健康体であろうとも、一瞬先はわからないのです。どれほど頭の良い人であろうとも、最後に痴呆になって、自分の名前さえもわからなくなる可能性があります。身体を鍛えすぎて歳をとって痴呆になっても、寝たきりになっても、なかなか死を迎えられず、悲しく苦しい日々を送ることになる場合もあります。老夫婦が二人とも病気に倒れて、どうにもならならずに二人いっしょに自殺したこと、また一人暮らしの老人が病いに倒れて飢え死にした事件など、悲しいニュースがたびたび聞かれます。

 健康、やせること、美しくなること、おしゃれなどにばかり気を取られている現代人が忘れてしまった大切なことがひとつあります。それは、人は誰でも必ず、病気になり、老い、死ぬ、ということです。健康ややせることなどに頑張る人は、病む、老いる、死ぬ、という3つを否定しなくてはならないのです。もし、今日か明日、死ぬことになっているならば、高価なブランドものの鞄を買っても意味がないのです。病気で倒れて、呼び出された救急車が来る前にあわててお化粧する必要はないと思います。老人がガングロになってミニスカートをはいても、別にセクシーになるわけではないと思います。

 末期ガンであと3ヶ月ももたない状態の人が、焦ってマンションを買ったりする必要もないと思います。このように極端な例を出したのは、我々の、幸せになろう、豊かになろう、美しくなろう、欲しいものを得よう、人生を楽しもう、といういかなる努力も、生きるものすべてに定められている病老死という三苦を否定しなければ成り立たないことを、わかりやすくするためです。

 努力するのは悪いことではありません。三苦の定めをきれいに忘れてしまうことが、問題なのです。人が病気で倒れたら、あるいは老いて不自由になったら、また痴呆になったり寝たきりになったりしたら、本人もまわりも途方に暮れます。どうしようかと悩みます。自分を愛情いっぱいに育てた親でも、寝たきりになって手がかかるようになったら「早く死んでくれれば」と思うときもあります(あとで恐ろしいことを思ったと後悔しますが)。時々殺したりもします。

 日本では、一般的にガンを本人に告知しません。なぜでしょうか。精神的に大変混乱するからです。事実は事実なのに、混乱するのはなぜでしょうか。それは自分に限ってはガンになって死ぬはずはないと思って生きてきたからです。たまに末期ガンを本人に告知する場合もありますが、そのときは、本人がいくらかは理解能力のある知識人だと仮定してそうするのだろうと思います。でも告知された人が、残りの日々をどのように過ごせばよいのかわかっているでしょうか。本人に告知しないで家族に告げたとき、その家族は末期の人に対してどのように接すればよいかを理解しているでしょうか。ほとんどの場合は、皆なすすべもなく、途方に暮れるでしょう。

 少子化社会、健康な長寿社会を目指して日本は頑張ってきましたが、今になって高齢化問題にぶちあたり、解決方法も見いだせなくて困っています。少子化、長寿化を思い出したときには、問題の都合のよい側面しか見てこなかったのです。定められている三苦を忘れ、無視したのです。この両側面をはじめから考えておいたならば、今になって問題が起こるはずはなかったのです。

 必ず来る病老死の三苦を忘れるから、あるいは無視するから、襲ってくる精神的な悩み苦しみがあまりにも多いのです。いじめから、殺人、自殺にまで追い込まれることにもなります。おしゃれも健康も楽しく遊ぶことも、豊かになるため、また有名になるために努力することも、それはそれで一向にかまわないのですが、人生のその側面ばかり見るのではなく、病老死の三苦が必ず起こるという事実を決して忘れないようにしなくてはならないのです。結局、人間が想像する幸福は、病老死の三苦の土台のうえに立っていることを忘れてはならないのです。

大木と比丘 三苦を忘れなければ、それほど向きにならなくても気楽に人生の幸せにチャレンジできると思います。突然倒れても末期状態になっても、落ち着いて冷静に対応できるはずです。三苦を忘れない人は、自分の人生を死にいたるところまで計画します。今の我々のように、一時的なつかの間の楽しみだけにすべてをかけること、全精神を向けることをやめるのです。三苦を知った人は、たとえ寝たきりになっても、体が不自由で苦しいだけですむのです。悔しさも精神的な悩みもなく、明るい心でいられるのです。

 人は死が近づいたときどうすればよいのでしょうか。今まで死を否定してきた普通の人にも死を認めてきた智慧の人にも、必ず死は近づいてくるのです。もうやることもできることも何もないのです。そのときはただ他人のお世話になっているだけです。この場合は、死を恐れるべきではありません。否定してはいけません。神様でも来て治してくれと思ってはいけません。何か治療方法があればいいなあと妄想してはいけません。ちゃんと治療しなさいと医者に文句を言ったり、看病しなさいとまわりに言ったりしてはいけません。

 かわりに死を認めるのです。今までの自分がたとえ美しかったとしても、社長でいても、人気者で有名人であっても、一財産作ったとしても、子供に、親戚に恵まれていたとしても、今からすべてを置いて去らなくてはならないことを観察するのです。自分が虚しい、かわいそう、ではなく、今まで死を否定してやってきたこと、何ひとつも自分のものにはなっていないこと、そのすべてが虚しいと知るのです。

 子育てに、仕事に、健康に、努力しなくてはいけないまわりの人たちも、世界も、皆結局自分と同じ運命になるのですから、今人生を終えかけている自分ではなく、かわいそうなのはまだまだ生きていなくてはならない他人だと理解するのです。「生」に対する無執着の心を作るのです。それは仏教の理想的な死に方です。


今回のポイント
◎経典の言葉
Parijinnam idam rûpam - roga niddham pabhanguram,
Bhijjati pûti sandeho - maranantam jîvitam.(Dh. 148)
この身体は衰えはてた。病の巣であり、もろくも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。(Dh.148)
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