パティパダー巻頭法話
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No.66 (2000年8月)
悟ったつもりは危険
〜刺激に対する反応でこころの状態がわかる〜
A・スマナサーラ長老

 お釈迦さまの時代、欲におぼれた世俗的な生き方を厭い、清浄な心を育て解脱を体験したいと思って、あるグループが皆で出家しました。

 出家の目的を達成するためには修行しなくてはならないので、人里離れて森の中に入って励みました。努力が実って、徐々にこころが清らかになっていきました。こころを乱すような、外の世界からの刺激も何もなかったので、修行過程もそれほどきついものではありませんでした。彼らはまずサマーディ(禅定)、こころの統一をつくる冥想に努力し、禅定に達することに成功しました。

比丘 出家した時点ですでに欲に未練はなかったし、森に入ってしまえばさらに、こころを乱す俗世間の刺激もなかったのです。サマーディ冥想の結果として、欲の煩悩がまったく表に出なくなってしまったのです。月日が過ぎてもこの比丘達のこころは清浄な状態を保ち続けていました。こころにわずかな汚れも感じなかった彼らは、「やっぱりこころがきれいになっているのだ。煩悩なんかひとかけらも生まれないのだ。これで修行は完成ではないのか。そうだとすればお釈迦さまにご挨拶に伺って、報告した方がよいに違いない」と思って出かけました。

 お釈迦さまはそんな彼らのこころを前もって読みとっておられました。

 そこで、彼らが森の境を出て町に入る前に、アナンダ尊者を呼び出しおっしゃいました。「アナンダ、君が先に行って、あの比丘達に、こちらへ来る前に墓場(遺体捨て場)でも散歩するように言いなさい」町に入る前にアナンダ尊者にこの話を聞かされた比丘達は、「お釈迦さまは何かお考えがあっておっしゃられたことでしょう」と思い、墓場へ寄り道しました。

 墓場にはいろいろな遺体が捨ててありました。捨てられて月日が経った遺体などは、醜くてとても気持ち悪いものでした。破裂してからだ中からうみが出ている遺体は、醜いばかりでなく強烈な悪臭で吐きそうになるほどでした。気がつかず無意識のうちに、その場を去る足どりはかなり速くなっていました。
 墓場から早足で逃げたその日にお釈迦さまに会っては、お釈迦さまの「墓場を散歩しなさい」というアドバイスを真剣に実行しなかったことになります。釈迦尊の言葉を中途半端にしか実行しないようでは、胸を張ってお釈迦さまに顔を見せられません。

 ですからその場を離れてもう少し散歩をすると、今度は捨てたばかりの遺体に出会いました。それはそれほど見苦しいものではありませんでした。遺体がいくつかあり、よく観察しました。遺体がつけていた服などは、出家者達が衣を作るために持っていくため、遺体はすべて裸でした。

 一生からだをかくして生活する女性の身体の日に当たらない部分は、はりがあってみずみずしいものです。遺体になっても、日に当たらない部分にはまだまだ美しさが残っていました。比丘達の目は無意識的にそこに釘付けになってしまいました。出家したときから今まで現れなかった欲がじわじわと出始めました。ホルモンがまわり、性欲まで出てきました。

 命と同じ重さで戒律を守る比丘達は、自分の身体の変化に驚きました。 こころの変化はもっとひどいものでした。 ちょっと前にはいやな気持ちでいっぱいでしたのに、今こころは欲で動揺しています。 皆、精神的にものすごいショックを受けてしまいました。

 よくも、悟ったからお釈迦さまに報告しようなどと意気揚々と出かけてきたものだと自分たちのことがあまりにも惨めで、行くにも行けず帰るにも帰れず、八方ふさがりな状態に陥ってしまいました。

 すべてを先に計算済みでおられたお釈迦さまが、ご自分で出かけて比丘達に会い、ひどく叱られました。

 「君たちは、腐って捨てられ、つぶれたかぼちゃのようになっているこのからだを見て、よくも欲を引き起こしたものですね。美しいと勘違いさせる体型をつくるのはこの骨です。壊れて砕け、そこらじゅうに散らばっているこの骨が、そんなにも欲情を引き起こすのか。

 山鳩の色のように灰色に変色しているではないか。 この骨が気持ち悪いと思うならば、生きている人の骨も気持ち悪いはずでしょう。悪臭を放ち、うみを漏らしているあの遺体を、気持ち悪いと感じたのではないか。

 生きている君たちも皆、常に悪臭を放ち、うみを漏らしているでしょう。毎日洗ったり、香水をつけたりして、ただ愚か者どもをだましているのではないか。

 私はきれいだ、きれいだと。

 醜い遺体を見て足早に去った君たちが、新しい死体のところでは、よくも足も目も止めたものだ。ありのままにものを見る能力はひとかけらもないのだ。たとえ目にはきれいに写る遺体でも、明日になると悪臭のうみを放つようになることがなぜわからないのか。

 生きているものでも、洗ったり手入れをしない限りは、からだは悪臭を放つ醜いものになること、欲の対象になるに値しないことをなぜわからないのか。

 好き勝手に、自分の都合でものを見たり判断したりするのは、愚か者のやり方です。

 こころに欲があると、愚か者は何でも『きれいだ、好きだ、かわいい』という目で見るのです。そのときには、醜い側面、いやな側面は見えないのです。

 こころに怒りがあると、何でもかんでも『いやだ、嫌いだ、気に入らない、ダメだ、良くないんだ、悪いんだ』という尺度でしか見ないのです。そのときは、良い側面にまったく気がつかない。

 出家した君たちも俗世間の人々の見解をまったく乗り越えていない。好き勝手に自分の都合で遺体を見ただけです。怒りも欲も現れ放題でした。ものごとをありのままに観る訓練をすることのみが悟りの道です。帰りなさい、修行し直しなさい」

 比丘達は、少々冥想してこころが落ち着いただけのことで、悟ったのだと傲慢になって自分をだましただけでなく、お釈迦さまに叱られなかったならば他人までだまし続け、人の幸福さえこわすことまでやりかねないと、よく理解しました。よく反省し、その後修行を完成しました。※

 このエピソードは、聖者に、或いは神秘能力を身につけた超能力者になりたくて、また開祖様やお釈迦様、神様になりあがりたくて、修行まがいのインチキ行をやって人をだまし続けている人々にも、だまされ続けている人々にも考慮すべき何かを含んでいるのではないかと思います。仏陀の道はインチキも詐欺も決して認めないのです。


今回のポイント

◎経典の言葉
Yânimâni apatthâni - âlâpûnen'va sârade,
Kâpotakâni atthîni - tâni disvâna kârati.(Dh.149)
秋に投げ捨てられた瓜のような(からだ)、鳩の色のような骨を見て、愉しいのか。(Dh.149)
※エピソードは、原文をもとにわかりやすく解釈したものです。
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