パティパダー巻頭法話
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No.68 (2000年10月)
文化遺産と心の遺産
〜「値札」と「価値」が悪を呼ぶ〜
A・スマナサーラ長老

 エジプトのビラミッド、ギリシアのアポロ神段、奈良の法隆寺、日光東照宮、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥール、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」など、世界遺産のなかには、480もの文化遺産が登録されています。160カ国にわたるこれらの遺産を、多額の資金を投入して大事に守っています。これらの文化遺産というのは、大変慎重に守らないと、人類がたどってきた歴史と昔の人々の栄光があとかたもなく消えていくことでしょう。ピサの斜塔が倒れないようにするために、いまだにかなりの苦労を続けています。ポロブドゥールの修復に日本はじめ世界の考古学者たち、エンジニアたちが、最新の技術を駆使して、一個一個の石を測定をしたりして、何年もを費やしました。資金不足でアンコールワットの修復は、まだほんのわずかしか手がついていません。世界文化遺産のなかには、見学者が多いと壊れてしまうため、一般公開されていないものも多いのです。

 文化遺産だけではなく自然環境も、いくらお金がかかっても、これからは守らなければならないことになっています。なぜこれらのものは守るべきなのでしょうか。自然環境の場合は、それを守らなければ、これからの人類に先がないわけですから、あらためて問う必要もないのです。文化遺産の場合は、人類の命には直接関係はないので、いろいろと考えなくてはなりません。人類が今までたどってきた道を学問的に、科学的に、研究して理解することは、現代社会人のなすべき大事な仕事のひとつです。文化遺産は、歴史を語るために絶対必要な証拠なのです。奈良の大仏様がなければ、当時の人々の努力の度合いはわかり得ないし、その時代の人が、死んでから生まれ変わることにどれほど真剣であったかということは、ビラミッドがなければわからないでしょう。では、なぜ歴史を知る必要があるのでしょう。それは、歴史を知ることで、現在の生き方をいくらかいい方向へ運ぶことができるからです。戦争の残酷さ、原子爆弾の恐ろしさを明確に具体的に実感しておけば、これからの世界の平和を真剣に守ることができると思います。このようなわけで、並々ならぬ苦労をして、我々は文化遺産を大事に守るのです。

 ですが、歴史を勉強しても、文化遺産を守っても、本当に人類は過去から学ぶのかと考えるとちょっと疑問を感じます。過去の栄光を賛嘆するだけで、現代においては何もしない場合もあります。仏陀やキリストが生きていた場所などを文化遺産として守ってはいるが、その偉大なる人物が教えた道を実践しようと思う人は少ないのです。文化遺産を観察する人々は「わ一っ」「え−っ」「すごい」「驚いた」という感嘆の言葉を発して終わるのです。なぜそうなるのかというと、今の我々の人生には、過去の栄光は関係ないからです。

 実を言うと、学問的な価値のみを見て、文化遺産を守るようになったわけではありません。「古いものは高値で売れる」と欲に目がくらんだ人々は、最近まで、それらを破壊してきました。破壊されず、やっと残されているものについては、もはや値札がつけられません。このことも古いものを大事に守る一つの理由です。

 文化遺産の話とお釈迦さまの教えとの間に何の関係があるのかと、皆さん、もうとっくに疑問に思っておられることでしょう。高価で大事なものも壊れていきますよ、とお釈迦さまは語っています。文化遺産を守る研究者たちは、この事実をよく知っていることと思います。ローマ帝国の遺産も、過去の皇帝たち、王族たちの宮殿も、そこで使用していた生活用具や装飾品も、壊れていくのです。ダビンチの絵も、ミケランジェロの作品も、慎重に守らないとすぐに壊れていくのです.広隆寺の弥勒菩産像も、興福寺の阿修羅像、正倉院の宝物なども、大事に守らないとすぐ壊れていくものでしょう。人間の欲の目で見て値札をつけられないほどのものであろうとも、すぐ壊れてゴミになりかねないもろいものです。人類の遺産として値段がつけられないほどだと思われるものは、いかに壊れやすくもろいものかという事実を強調したいのです。これら、ビラミッドやローマの宮殿、コロシアムなどは、現実的には、現代人の役に立つものではありません。真似て似たものを作る必要もありません。実際の日常生活の知恵を教えてくれることはほとんどなく、現代人にとっての価値といえば、見て感動するということくらいです。仏教自体はたいへん知的で文化的な宗教ですから、文化であろうとも文化遺産であろうとも、それを守ることに反対意見は持ってはいませんが、仏教の論理から見れば、高価な古いものは、今生きている人間にとっては無価値なものです。

 ところで、俗世間の目で見て高価だと思う品々を持つことは、幸せの原因になるのでしょうか。億単位で値札がつけられる国宝の掛け軸を持っている人は、それを守るためにどこまでの苦労をすべきなのでしょうか。宝物のために命さえ奪われた人々もいるでしょう。たとえ殺されなくても、「この国宝は私の財産だ」と思うこと自体が並々ならぬ束縛です。世の中のすべての宝物は、公の組織で守るようにして、個人で持つことは国際的に禁止した方が、個人の人生は楽になるだろうと思います。珍しいものを蒐集するコレクターたちがいますが、彼らは実際、価値のない品物ばかり集めて、救われないほどの強い煩悩で束縛されるのです。煩悩に汚れた人生は不幸そのものです。がらくたを集め積み上げるかわりに「徳」を積むことを仏教は評価します。

 本当に価値あるものは、いかなる時代でもいかなる場所でも価値がなくてはならないのです。常に人類に役に立つものでなければならないのです。普遍的な価値こそが本当の価値です。ではそのようなものは、世の中にあるのでしょうか。釈迦尊、また聖者たちが語った真理だけは、普遍的に変わらぬ価値のあるものなのです。仏陀の教えはいつの時代でも、どんな人にも、人生に役に立つ真理なのです。 

今回のポイント

◎経典の言葉
Jîranti ve râjarathâ sucittâ - atho sarîram pijaram upeti,
Satam ca dhammo na jaram upeti - santo have sabbhi pavedayanti.(Dh. 151)
いとも麗しき国王の車も朽ちてしまう。またこの身体も老いに近づく。善人たちが「しかり」と賞賛する真理は、朽ちることがない。(Dh.151)
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