パティパダー巻頭法話

No.70(2000年12月)

『知っているつもり』の苦しみ

エゴと煩悩のメカニズム 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

『知る機能』がこころですと仏教は定義しています。しかし「私はこころで何でも知っている」と思うようになったら、これは問題であると思います。仏教は、こころは正しく、ありのままに、ものを知ることをしないという立場をとっています。目耳鼻舌身意という6つの窓口で色声香味触法という6種類の情報を知るということになっていますが、我々はありのままを見ないで、『意』(こころ)のなかで解釈して幻想をつくっているのです。私たちが『知った』というのはこの幻想のことです。人それぞれ好き勝手に幻想を作るので、二人で同じものを見たり聞いたりしても、それぞれの理解、感覚などは違ってきます。ですから私にとってきれいな絵も、他人にはおもしろくもなんともない絵になるでしょう。私にとって美味しいものは他人には美味しくないでしょう。このような働きの結果として、すべての生命には『個』という概念が成り立って、孤独になるのです。

それから我々は、自分が知っている世界以外のことを知らないので、自分の幻想の世界(主観)が、正しいと思い違いするのです。それによって他人との対立が生じ、意見の違う人に対しては怒りや憎しみなどの煩悩、意見が似ていると思われる人に対しては欲、執着などの煩悩をつくって、悩み、苦しむのです。人間関係で生ずる様々な問題は、自分の主観が正しいという錯覚が原因になります。社会的なトラブルも、国際的な民族紛争、戦争なども、それぞれの主観(私たちが正しい、相手が間違っている)にしがみついているから生じる問題です。

問題はそれだけでは終わらないのです。ものを見たり聞いたりする過程で、必然的にできあがる幻想の世界が、我々のこころの中にも『動乱』を起こすのです。見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わったもの、身体で感じたもの、考えたもの、について、好きか嫌いか判断するのです。もし好きという判断になったなら、それらの対象に執着をし、欲を抱くのです。好きなものがもっとたくさんあってほしいと、さらに似ている対象を探し求めることもします。また、すでに持っているものについては、厳重に守ろうとするのです。

好きなものをより多く探し求める過程を見てみましょう。我々には欲しいものは無限にあるのですが、得られるものは1兆分の1でしょう。そうなると、失望感におそわれます。生きることもいやになって大変だなあと思うようになるのです。また、好きなものを大事に守る過程を考えてみると、やはり同様にトラブルを作ります。ものは変化するので、好きなものをいくら守っても、変化して消えるのです。それはたいへんいやなことです。そうなると、憂いも悲しみも生じます。我々の財産、立場、権力、仕事などが、他人、あるいはライバルに奪われることもあります。そのときは強い憤り、嫉妬を感じるようになります。攻撃できるならば、他人とぶつかり合うことになります。攻撃できないと思ったら、悲観的になり、落ち込むようになります。これらの問題は、こころが幻想をつくるようになっているから、必然的に生まれる『こころのなかの動乱』です。

知る機能である『こころ』の働きがろくなものでないので、すべての生命が知ったつもりではいるのですが、ありのままに知ることはまったくないのです。結果として、個(自我、エゴ)が確立して、他人と対立することで、こころに煩悩が生まれ、こころの内の好き嫌いの判断でも煩悩が生まれます。それで、知ることによって、こころが煩悩の固まりになるのです。ものをありのままに見られれば、この問題は解決するのですが、判断なしに知ることができない生命にとっては、この仕事はまったく不可能です。煩悩の影響で、すべての生命はいくら生きていても満足しないのです。もっと生きていきたい、死にたくはないと、生に対して強い渇愛がつきまとうのです。これが輪廻の原因です。

生まれては死ぬ、また生まれては死ぬ、という限りない回転を、お釈迦さまが、はじめて破ることに成功しました。これは、認識のメカニズムから考えると、不可能なことです。あり得ないことです。この成功には、さすがのお釈迦さまも驚きました。生命が知ったつもりでいて、なにも知らないということに『無明』(avijjā)と名付けられました。解釈、判断、幻想化することなどをしないで、直接ものを知ることができる能力を『明』(vijjā,aloka)と名付けました。それで、お釈迦さま個人の一切の苦しみは、また二度と生まれないように消えてしまったのです。お釈迦さまは、過去世から、生命の永遠な悩み苦しみの問題に対する解決方法を探していたのです。29歳で出家して6年間、命をかけて苦行しながら探したのです。それでも答えは見つからなかったのです。すべてあきらめかけたところで、ついにこれはこころの認識の問題であると発見したのです。それで無意味な苦行をやめて、中道で瞑想実践し、ありのままに知る能力を、菩提樹の下で一晩のうちに身につけたのです。今回のダンマパダの偈は、悟りを開いたときのお釈迦さまの喜びの声です。

今回のポイント

  • こころは知る機能です。
  • 主観と判断という膜で、こころは覆われていますので、正しく知ることは不可能です。
  • 我々の認識のすべてが、普遍的真理ではなく、個人の主観なのです。
  • 自分が知っていることは正しいと思うことが、煩悩と苦しみの原因です。
  • 我々は『知っているつもり』でいるだけです。

経典の言葉

  • Aneka jāti sansāraṃ – sandhāvissaṃ anibbisaṃ,
    Gahakārakaṃ gavesanto – dukkhā jāti punappunaṃ.
  • わたくしは幾多の生涯にわたって、生死の流れ(輪廻)を、
    家屋の作者を探し求めて、無益にさまよってきた。
    あの生涯、この生涯と繰り返し、
    生まれ変わることが苦しいことである(から)。
  • Gahakāraka, ditto’si – puna gehaṃ na kāhasi,
    Sabbā te phāsukā bhaggā – gaha kūtaṃ visankhitam;
    visankhāra gataṃ cittaṃ – tanhānaṃ khaya majjhagā.
  • 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
    汝はもはや家屋を造ることはないであろう。
    汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
    こころは形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
  • (Dhammapada 153,154)
  1. 家屋の作者(ガハカーラカ):家屋は身体のこと(五蘊)です。人がなぜ繰り返し繰り返し生まれ変わり苦しむのかと、その原因を探していたのです。
  2. 汝の梁(パースカー):こころの煩悩(汚れ)を指す。
  3. 家の屋根(ガハクータン):無明を指す。こころがありのままに知ろうとしないこと。
  4. 形成作用(サンカーラ):知るメカニズムで生まれる主観(概念)の世界。
  5. 妄執(タンハー):渇愛。いくら生きていても満足しないので、まだ生き続けたいと思う気持ち。