パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.71 (2001年1月)
「社会が認めるのはどのような人か」

〜道徳が支える人生に後悔なし〜
A・スマナサーラ長老

 人はどのように生きていればよいでしょうか。何か理想的な生き方というものでもあるのでしょうか。自分にぴったりと合う特別な生き方があるのでしょうか。間違った生き方と、正しい生き方とは何でしょうか。どうすれば正しい生き方を見いだせるのでしょうか。そもそも人間が生きることに、何か意味があるのでしょうか。

 これらの質問にズバリと答えを見つけたいという気持ちは誰にでもあるのですが、最終的に皆が納得できる解答は出てこないと思います。しかし解答がなくても、生まれてきたときから死ぬときまで生きていかなければならないということだけは、何の変更もできない絶対的な事実です。だからといって「ただ生きていればいい」ということにもならないのです。この問題について、お釈迦さまはどのように見ておられたのかを考察してみましょう。

 お釈迦さまは、人間は否応なしに死ぬまで生きていなければいけない、というまったく当たり前の事実に基づいて観察しておられます。

 財産の積み重ねよりも、道徳の積み重ねのほうが優れていて、なおかつ正しいとおっしゃいます。若いころ、王としての権利とすべての財産を捨てて、一文も持たない出家生活に入られたのも、この理由によるのです。もしもお釈迦さまが国王となり、贅沢な生き方をして、親が自慢できるような人間になっていたとすれば、当時のまわりの人々以外誰も、お釈迦さまのことを知ることはなかったでしょう。すべてを捨てて道徳の道に入られたことで、世界中の多くの人々が、今現在に至るまでお釈迦さまの言葉に従うようになったのです。

 人間は、生きているかぎり、道徳の道に最優先にチャレンジすべきです。それが成功する人生です。一般的に、人は財産にあこがれます。世界の億万長者番付に名前が載る人々は成功者だとも思っています。誰もが、財産はあるにこしたことはないと思っているのですが、財産をほめる人間の気持ちは本物ではありません。見せかけだけです。金持ちに対しては「ああそうですか」「すごいですね」などの反応だけですぐに忘れてしまいます。逆にそういう人々は、恨まれたり、憎まれたり、命を危険にさらされるなど様々な不幸にも直面しなければなりません。本当に人類が仰ぎ見る人物は金持ちではなく、イエス・キリスト、ナイチンゲール、アインシュタイン、キング牧師、ガンジー、マザー・テレサ、野口英世、二宮金次郎のような方々です。

 ですから、どのように生きるべきかというと、道徳の道を選ぶべきだと思います。道徳といえば、おおざっぱで何なのかわからないかもしれませんが、簡単に『人類の役に立つ生き方』だと理解すればよいのではないかと思います。「自分が生きることで人の役に立っている」と思えるならば、それこそ正しい生き方です。大胆なことをする人間にならなくてもよいのです(すべての人にそれは無理だと思います)。裕福であろうと貧乏であろうと関係なく、光り輝く人格者でなくてはならないのです。罪を犯さない、信頼できる、他人に対して優しい人間にならなくてはならないのです。それぐらいの道徳であるならば、誰にでも実行できると思います。財産であふれていても知識に満ちていても、犯罪を起こすならば、あるいは道徳が乱れているならば、社会から非難され追い出されることになります。ですから人間誰でも、財産や知識を獲得することよりも、人格者になることを生きるモットーにするべきです。

 財産が悪だと言っているわけではないのです。財産も知識も、幸せに生きるためには欠かせないものですが、このふたつを比べると、財産より知識がありがたいのです。知識さえあれば、この地球のどこででも生きていられるのです。知識は自分のからだについている財産ですので、どこに行っても一緒です。財産の重要性は知識の次にくるものです。仏教によると、知識と財産は道徳という器のなかに持つものです。その器が破れたら、知識も財産も、あとかたもなくこぼれてしまうのです。(道徳を犯したことで、医師免許、弁護士免許を失った人がいましたね)

白鷺

 お釈迦さまの時代、ある億万長者の家に一人息子が生まれました。ありあまる富に酔っていた両親は、「これほど財産があると、一生苦労しないでしょう」と考え、子供に、道徳どころか教育さえも与えないで、贅沢三昧に育てました。年頃になり、同様な億万長者の家から嫁をもらいました。一人っ子だった彼女も、贅沢三昧で育てられた娘でした。両家の両親が亡くなったので、夫婦は、親の2倍、裕福になりました。

 しかし、知識がなかったこの二人に、財産の管理はできませんでした。道徳も知らなかったので、酒好きな人々、賭け事におぼれる人々、ドラッグにふける人々に誘惑されて、あっという間に全財産をなくしてしまったのです。住んでいた家からも追い出されてしまいました。この夫婦は、命をつなぐためには乞食になる以外に方法がなかったのです。

 ある日、托鉢に出かけたお釈迦さまが、残飯を食べているこのみすぼらしい夫婦を見かけたのです。お釈迦さまから見れば、この二人は、もう人生のやり直しがきかない状態でした。みなしごの人々を出家させて、修行を積ませた結果、悟りを開いたというエピソードもありますが、道徳に無関心で、おごった生活をしていたこの二人には、出家修行も無理でした。お釈迦さまには、完全な失敗人生のモデルに見えたのです。そのみすぼらしい姿について、「この二人は、道徳も学ばず、若いうちに財産を獲得することもしないで生きている。今は、枯れてしまって魚が一匹もいない湖の前で泣いている白鷺のようです」と教えられたのです。

今回のポイント
◎経典の言葉
Acaritvâ brahmacariyam (1)- aladdhâ yobbane dhanam,
Jinna koñcâ'va jhâyanti - khîna macche'va pallale. (Dh.155)
若い時に道徳を実践することなく、また財を獲得することもないならば、魚のいない池に立つ痩せた白鷺のように悶々と悩む。(Dh. 155)
Acaritvâ brahmacariyam - aladdhâ yobbane dhanam,
Senti câpâtakhînâ'va - purânâni anutthunam. (Dh.156)
若い時に道徳を実践することなく、また財を獲得することもないならば、昔のことばかりつぶやきながら、使い古された弓のように横たわる。(Dh.156)

注(1):brahmacariyam :清らかな生き方という意味です。
仏教の場合は、出家して修行することもbrahmacariyaといいます。在家でいても、普通の世俗的な生き方と違って、仏教で教えられる道徳的な生き方(戒を守り、瞑想すること)はbrahmacariyaといえます。
brahmaとは梵天のことで、絶対的な神様を意味します。また優れている、清らか、という意味です。cariyaは、生き方、実践の意味です。
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