パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.72 (2001年2月)
「自分しか愛せない」
〜智恵のある人は自分を守る〜
A・スマナサーラ長老

 私たちは誰のことが一番好きでしょうか。 誰のことを真剣に心配したり、気にしたりするのでしょうか。 子供のこと、両親のことなどが思い浮かぶかもしれませんが、実は違います。 どんな人でも、何より先に自分のことが、好きなのです。 自分のことを心配するのです。

 しかしこの事実を誰も認めないのが、おもしろいところです。 たとえば母親が「あなたは子供のことよりも自分のことを心配する人ですね」と言われたら、必ず怒りだすだろうと思います。 ほとんどの人々は、自分のことを後回しにして、まわりの人のことをよく心配しているのだと思って、生活しているのです。 この思いは、確かに大変気持ちのいいものです。 でも残念なことに、これは単なる思いこみに過ぎないのです。

 親しい人に死に別れた人々の悩みを、以前よく聞いてあげたことがあります。 しかしよく聞くと、親しい人のことで思い悩む誰もが、結局は自分のことばかりを気にしているのだとわかります。 「あの人はよく心配してくれました。 よく愛してくれました。 必要なものなどは、無理をしてでも買ってくれました。 私の話をよく聞いてくれました。 私の気持ちをよく理解していました。 その人が亡くなって、とても寂しいのです。 夜も眠れないのです。 毎日、夜になると、涙が止まらないのです。 生きる気力さえもなくなってしまったのです……」。 言われるのはだいたい、決まってそのような話です。 総合的に考えると、自分が損した部分を羅列しているのみです。結論は、「あの人が亡くなって、私は損をしました。 だから悲しい」ということになります。 子供の場合は、正直ですので、はっきりしているのです。 「お父さんが亡くなりました。今度は誕生日にプレゼントをもらえないでしょう。 遊びに行く場合は、誰と一緒に行けばよいのでしょう」と泣くのです。 大人も、本当は自分のことばかり気にしているのに、それに気がつかないでいるのです。

 この世の中、結局は寂しいものです。 ある人が、まわりの人々のことをよく心配して協力してあげるならば、人はその人を愛するようになるのです。 もしいつの日か、その人の協力がなくなったならば、あるいは自分の意見に賛成しなくなったならば、そのときからその人のことを愛するどころか憎むようになってしまうのです。 ときどき、長い年月仲良くしていたのに、ちょっとした失敗を原因に、今までの親切がすべて水の泡となり、死ぬまで憎むようになる場合もあります。 人の役に立たないならば、自分のことを心配する人はひとりもいないという状況は、寂しいものです。

 なぜ人は人のために行動するのでしょう。 人の心には自己愛以外の、他を愛する気持ちもあるのではないかと思うかもしれません。 しかし普通、他人のことを心配するのは自分のためなのです。 両親のことを愛する子供は、その方が自分にとって幸せだと思っているから愛するのです。 あるいは、ひとりで何もできない自分のことを、両親は一生懸命やっているのですから、愛さざるを得ないのです。 わがままを言ったりさからったりすると、両親に怒られ大変なことになるとも知っているのです。 両親にしても、子供が自分の生き甲斐なのです。 家庭を安定させる要なのです。 子供がいるから、自分たちもしっかり計画をたてて生活しなくてはならないのです。 とにかく、子供が笑っただけでも楽しくてたまらないのです。 子供が、いくらお金があっても買えない『生きる喜び』を与えてくれているのです。 夫婦愛も、親戚・友人などを大事にすることなどのすべての人間関係も、自分が得をするから成り立っているのです。

 人は誰でも何よりも先に、自分のことを愛する。 自分のことを大事にする。 自分のために行動する。 自分のために生きている。 この事実は否定できないと思います。 「自分の幸せを措いておいて他人の幸福のために励む」「自分が輪廻のなかで苦しみながら衆生を救済する菩薩行」「衆生のために罪の償いとして、罪のない自分が受難する」…このような言葉は確かに耳ざわりよく、尊さを感じさせる表現です。 しかしこころを様々な概念で汚さず、客観的に生きることを観察すると、これらが、それほど深い意味を持たない言葉の羅列であることに気付くでしょう。 あるいは、希望的観測だということに。

 では、自分のことしか大事にしない性格は、悪いのでしょうか。 これは良いとか悪いとか、特別に判断できる問題ではないのです。 生きているものすべてが、自分のことしか愛せない、また理解できないような構造になっているだけのことです。 鳥が、飛べないと魚を批判することも、魚が、泳げないと鳥を批判することも、無意味なのです。 一般的には鳥が泳げないように、魚が飛べないようになっているのです。 同様にすべての生命は、自分のことのみ大事に思うようになっているのです。

 ではどうすればよいのでしょうか。 ものごとの正しい理解を持って、概念に惑わされないで自分をしっかり守ること、大事にすることしかないのです。 我々は自分を大事にしていますし、自分を大事にするということの意味さえもわかっているつもりなのです。 だからこそ、世の中のことを知ろうともしないで、そのときそのときの自分の感情、主観で、発作的に行動しているだけではないのでしょうか。 怒りが起きたら、相手を怒鳴る、殴る、あるいは殺す。 お金が欲しいと思ったら、強盗でもする。 気持ちがよいと思って、麻薬に手を出す。 帳簿をごまかす。 嘘をつく。 賄賂をとる。 不正な行為に手を汚す。 人を脅す。 利益のために研究データを改ざんする。 自然を壊す。 しかし、このようなことで自分を大事にしているつもりでしょうか。 自分を愛しているつもりでしょうか。

 どのように生きているのか、他人、また自然とどのような関係を持っているのかということは、自分を大事にする人にとっては決して無視できない重要な問題です。 罪を犯す、他人に迷惑をかける、自然を壊す…そういう人は、結局は自分を壊しているのです。 破壊しているのです。 その行動自体が、『生命』本来の構造に逆らっているのです。 人は生まれたときから、自分を大事にしなくてはならないのです。 小さいとき理解できなかったならば、中年のときからでも自分を守らなくてはなりません。 中年のときもふざけて自己破壊行為をしていたならば、老年のときにはしっかりと生きることです。

今回のポイント
◎経典の言葉
Attânam ce piyam jaññâ - rakkheyya nam surakkhitam,
Tinnam aññataram yâmam (1) - patijaggeyya pandito. (Dh.157)
もしも人が自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。
智恵のある人は、人生の3つの区分のうち1つだけでも自分を磨くべきである。(Dh.157)

注 (1):yâmamとは少年期、中年期、老年期を指しています。
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