パティパダー巻頭法話

No.73(2001年3月)

守る気になれない道徳

説得力を持たない道徳は無意味です 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「悪いことはしてはいけません」「嘘をついてはいけません」「人をだましてはいけません」「怠けてはいけません」「他人のものを盗ってはいけません」…このような「いけません」洪水の中で、我々は、それを守るどころか、溺れて死にそうになっています。それほど言われてもなお、『やってはいけないこと』を正直に守ろうとする人々は世の中には少ないのです。

悪いことは何もしていないと言える人間はこの世の中にひとりもいません。仏教の立場でも、完全に悟りを開いて阿羅漢にならない限り、まったく過ちを犯さないということはありえません。キリスト教でも、まったく罪のない人間といえばイエズス様ひとりだけです。ということは、過ちを犯さない人間はひとりもいないということです。そのうえ人間というものは、自分の過ちをさんざん隠そうとするくせに、他人の過ちはまったく許そうとしないというおかしな性格を持っています。

親、学校の先生、あるいは目上の人やお寺のお坊さんに、いくら道徳を説教されても、真面目に守りたいという気持ちは、なかなか生まれるものではありません。だからといって、悪いことをして悪人になろうという計画があるわけでもないのですが。ほとんどの場合、説教する人が、喉から血が出るほどに話し疲れて終わるだけです。昔も今も、そしてこれからも、この状態は変わらないでしょう。

このような現象について、皆さんはどのように考えますか。まず、教える側に立って考えてみましょう。「皆、真面目に聞いていない」「真剣さが足りない」「いい加減だ」「出来が悪い」「だらしない」「どうにもならない」「昔の人と違う」「今時の人々は道徳なんか気にしない」のような感想が聞かれるだろうと思います。けれども考えてみれば、この感想も少しおかしいのです。今説教をする大人も、若い頃には、当時の大人に似たような感想を持たせただろうと思います。若者がだらしないというのは、永遠の課題でしょう。しかし、もしこれらの感想が正しいならば、人類はとっくに滅びているだろうと思います。大人に「だらしない」「道徳に無関心」云々と言われた若者も、自分が大人になったときには、ほとんどの人が、何とか分別を持って生きてみようと思うものです。

今月は「道徳的な教えは、なぜ耳に入らないのか」という疑問について、考察してみましょう。まず言えるのは、説得力がない、ということです。だらだらと説教するだけであって、聞く人が納得いくような説得力がありません。次のポイントは、説教というのは「いけません」の羅列であって、論理的に整理されていない、ということです。何年か前に話題になった話ですが、ある少年が「なぜ人を殺してはいけないのか」と問い、それにマスコミも宗教関係の人々も大騒ぎしました。いろいろな答えがありましたが、私の個人的な考えでいえば、誰ひとりとして論理的に人を殺してはいけないと証明することができなかったと思わずにいられません。

論理的な話、具体的な話には、誰でも耳を傾けるのです。道徳の場合も、こころの働きは同じだと思います。「嘘をついてはいけません」「人のものを盗ってはいけません」「他を殺してはいけません」「麻薬などを使ってはいけません」「法律を犯してはいけません」のようなごくあたりまえに感じられる道徳を、論理的、具体的に、証明して話すことができるでしょうか。誰もがただ、自分の意見、感想、また世の中の常識をオウム返しに口にしているのではないかと思います。ですから、聞く相手が真面目に聞かないとしても、それは決して不自然なことではありません。道徳に「なぜ」という疑問が欠けたら、皆、途方に暮れると思います。

たとえば「なぜ嘘をついてはいけないのか」。いろいろな答えが考えられます。そのように決まっているから。良くないことだから。ブッダやイエズスが説いたことだから。人は誰でも正しいと思っていることだから。悪行為だから。不幸になるから。えんま様に舌を抜かれるから。地獄に落ちるから。…このような答えは数限りなくあります。しかしひとつとして、嘘をついてはいけないという『道徳項目』が正しいと証明してはいないのです。証明できないものは、真面目に守る気持ちにはなれません。

仏教では、人が間違いを犯して不幸になった実例があったときだけ、道徳の『項目』を設定するのです。その場合は、ちゃんと証拠があります。予測したり将来のことを心配して『道徳項目』を設定することは、お釈迦さまが許されなかったのです。それはおそらく、『証明できるかどうか』ということを問題にされたためだと思います。それでも世の中に一般的に認められている道徳というのは、それなりのわけがあって生き続けているものです。時代が変わると、その理由がわからなくなるだけなのです。たとえば「嘘をついてはいけない」という項目を今の時代に照らし合わせてみると、若い人は正直なあまりに疑問に思うのです。世の中、皆、ほとんど、嘘をついている。コマーシャルも、嘘のコピーでできている。「買いなさい」と言っただけで、品物は買ってもらえません。政治家も会社の人々も嘘をついている。世は嘘がなければ壊れてしまうほど、嘘で固められている。今、自分に説教する人も、自分の身を守るために何の遠慮もなく嘘をつきます。この状況を観察する若者には、「嘘をついてはいけない」という『項目』は理解できないのです。逆に、「嘘をついてはいけないというのは嘘ではないか」と思ってしまいます。

問題は明確だと思います。道徳を語る人が、道徳を守っていないのです。自分で守れないものを他人に押しつけているのです。ですから説得力もないのです。人は限りなく在る道徳を守ろうと無理をしなくてもよいと思いますが、基本的な道徳ぐらいは真剣に真面目に守った方がよいと思います。自分が守っていることを語ると説得力があります。その話は信じられます。たとえば仕事を真面目にやらずにごまかしたり怠けたりさぼったりする人がいるとします。その人が他人に「仕事は真面目にやるべきですよ」と言っても聞きたくはないのです。勤勉に働いて成功した人が、自分の成功の秘訣は勤勉に働いたことだと言ったならば、相手に「私もやってみようかな」という気持ちが生まれます。自分で守っていない道徳は、他人に要求すべきではないのです。

今回のポイント

  • 過ちを犯さない人間はいません。
  • 説教されただけでは守る気にはなれません。
  • 道徳を守る人には説得力があります。

経典の言葉

  • Attānaṃ eva pathamaṃ – patirūpe nivesaye,
    Athaññamanusāseyya – na kilisseyya pandito
  • まず自分が正しいことを行えばよい。
    次に他人に教えればよい。そのようにする賢者は非難されないだろう。
  • (Dhammapada 158)