パティパダー巻頭法話
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No.78 (2001年8月)
「なぜ生命は不幸を目指すのか」
〜悪は善を装ってでも人を襲う〜
A・スマナサーラ長老

 楽しくて、やらずにおれない行為の危険性について考えてみましょう。
我々が生まれつき、また本能的に、実行すれば楽しくなるような行為は、限定されているような気がします。
美味しいものを食べたり、きれいな服を着たり、遊んだりして、皆、楽しみを感じるのです。 そのような行為は、何度やめさせられても、目を盗んででも、やりたくなるものです。
また、人間は競争したり、戦ったり、相手に勝ったりして、刺激を受けることを好みます。 競争すること、戦うことは、決して楽しい出来事ではないのです。
 しかし、これによって、こころが刺激されると、生きているという実感が現れてくるのです。生きる実感がなければ、毎日つまらなくて、退屈でやりきれなくなるものです。 ですから、遊ぶことと戦うことは、人間本来の生きる衝動になっているのです。 やりすぎないようにと、遊ぶことと戦うことに対していろいろ規則を作りますが、人間はその規則を喜んで守ることはしないのです。 タバコ、酒は20歳になってからといわれても、それより先に試してしまうのです。

 快楽と競争だけではなく、人間が好きなものが、もうひとつあります。 それは、何もしないでぼーっとしていることです。 寝転がったり、怠けたりすることです。

 この3つの衝動を控えるよう、戒めるよう、誰かが語ったならば、その人は簡単に嫌われます。 世の中は、欲、怒り、無知という3つの感情を賛嘆する話には惹かれるのです。 人に嫌がられることは承知の上で仏教は、欲、怒り、無知の替わりに不貪不瞋不痴を育てるように説くのです。 人間本来の感情に、なぜケチを付けるのか、やめられないのではないか、貪瞋痴にも適当に栄養を与えた方が楽ではないか、という気持ちが誰のこころにも浮かんで来て当然でしょう。 仏教の立場は、貪瞋痴が、人を幸福ではなく、自己破壊へ導くのだということです。 たとえば、麻薬などは瞬時に人に快楽を与えるでしょう。それを目指して使ってしまえば、依存することになって、自己破壊になるのです。 酒の場合でも、飲んで酔った瞬間には快楽だと思うでしょう。 でも、じわじわと、内臓は壊れていくのです。

他人の過ちに対して、怒鳴りつけるのは気持ちいいものですが、それからゆっくりと時間をかけて長い間、苦しまなくてはならないことになります。
無知で怠けることも、最初は楽しく感じますが、後に、とてつもない退屈感で悩むことになります。

束の間の楽しみのために永久に苦しむのは割に合わないので、仏教は貪瞋痴を戒めることを説くのです。
さらにもうひとつ、貪瞋痴には危険性があります。
本来生命が持っている貪瞋痴の感情にいくら刺激を与えても、精神的には、まったく成長しないのです。 人は生まれてから死ぬまで、こころに快楽と刺激をインプットするだけで、精神的には何の成長もなく、死んでしまうのです。 貪瞋痴を控えること、管理すること、乗り越えることでのみ精神的な成長が見られるのです。 従って、幸福、安らぎを目指す人は、こころが嫌がることを承知の上で、貪瞋痴を乗り越えることに励むべきです。

 また、快楽、競争、怠けることは、すべての悪の根源です。 楽しければ、人は普通、何でもやるものです。 怒りが生まれたら、人殺しまでするのです。
貪瞋痴に刺激されていない悪行はひとつもないのです。 貪瞋痴は、瞬間の刺激という「糖衣」に巻かれた「猛毒」です。 初めは楽しく感じますが、それからじわじわと人を苦しみの火であぶるのです。

 貪瞋痴はときどき、人に錯覚まで起こして、苦しめるのです。 それは、修行の世界で見られる現象です。 修行の世界では、貪瞋痴を制御することを勧めています。 ですから修行といえば、一般的には「やりたくないもの」になります。 厳しいもの、苦しいものだと、思われています。
不思議なことに、人間のこころの中に、「修行=苦行」という思い込みが染みついているのです。(仏教では、この思い込みもひとつの煩悩だと説かれています。 ということは、ある特別な人々の思い込みというよりは、全ての生命が持っている思い込み、ということになります)

 苦行であって当たり前だと思って真剣かつ真面目に修行に励む人々は、事実上は怒りの感情に限りなく刺激を与える羽目になります。 そのような方々は、苦しいことを好んで経験しながら、こころに普通の人と違った刺激をインプットしているのです。

怒りの刺激に負ける普通の人々は犯罪行為に至りますが、修行者たちは他人に迷惑をかける犯罪行為はしません。 でも、その修行は自分で、怒りの刺激を受けているだけですので、精神的には何の成長もないのです。
初転法輪経でお釈迦さまが、「極端な苦行主義はただ苦しいだけで、聖なる道にあらず‘anariyo’」と説かれたのです。

 苦行に惹かれて無意味な生き方をしてしまうということは、真面目で真剣な人々が陥りやすい落とし穴です。お釈迦さまのそばには、悟りを目指して修行する出家者たちがたくさんいました。 Devadatta はその比丘達を支配する権限をお釈迦さまに要請していました。 それが断られた時点で、彼は、苦行に惹かれる人の弱みを握ることを企んだのです。

 1,出家者は死ぬまで、森に住むべきです。
 2,終始托鉢で生きるべきです。
 3,糞掃衣のみまとうべきです。
 4,木の下以外で寝てはいけません。
 5,死ぬまで肉魚を食べてはいけません。

という一見真面目そうに見える条件をお釈迦さまに出したのです。
仏教における修行のポイントは、表面的な形ではなく、こころが清らかになるかならないかということです。 また皆に実行できるような道でなくてはならないのです。 「好きな人が守ればいいのではないか」とお釈迦さまはこの条件をお受け取りになりませんでした。 それを理由にして、Devadattaは、まだ悟っていない苦行に惹かれる比丘たちと一緒にサンガを分裂させたのです。 サンガの分裂は五逆罪のひとつです。 罪の中で一番重い罪です。

 貪瞋痴は、あまりにもずるがしこくて、善の仮面をかぶって、「修行」をよそおってでも人を悪に誘うのです。 悪はこの世の中で一番簡単であり、行いたくてたまらないものです。 自分のためになる善行為は、し難いものです。

今回のポイント 

◎経典の言葉
Sukarâni asâshûni - attano ahitâni ca,
Yam ve hitañ ca sâdhuñ ca - tam ve Parama dukkaram.(Dh.163)
悪いこと、自分にとって為にならないことはなしやすい。
為になること、善いことは実に、きわめてなしがたい。(Dh.163)
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