パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.8 (1995年10月)
「思考についての考察」
〜悩む人間、悩みのない人間〜
A・スマナサーラ長老

 人間が他の生きものに比して決定的に差があると思っていることは“考える”ということだと人間自らが認めようとしています。
動物も考えてはいると思うのですが、人間は思考することにプライドすらを持っているようです。 しかもこの“考える”ことや思考に伴う、あるいは思考の結果に表れる行動について自由性があるというのもまた人間の特権であるような錯覚を持っている人も多くいます。
 人間の思考や行動はほんとうに自由があるのでしょうか。 たしかに、私たちにこの“考える”習性がなければ人間は今日のような発展もなければ、社会秩序も作れなかったに違いありません。 人間がこの五、六千年のあいだに築いてきた文明はこの人間だけが持つ考える機能の結果です。 科学、文学、技術などすべてが思考の産物ですし、そうした人間の思考に執着しそれを研磨していこうとする情熱も分からないではありません。

 しかし、幸福をもたらすための思考が実は災難も生みだしている事実を忘れてはいけません。 思考もいろいろです。 合理的、具体的、実践的を目的としたどちらかと言えば理工系の思考形態から生まれる農学、工学、医学、科学等は、人間の生き方を豊かにする点において多大な貢献をしていますが、それが個人の利益の追究や単なる研究のための研究、つまり学問の楽しみだけを目的とした場合は危険な結果につながってしまいます。 もう一方が、芸術などに代表される人文科学系の思考法です。 絵画にしても文学にしても芸術は、鑑賞する側の感情と感覚を刺激するものですから、いくら芸術家が自由奔放にといっても人間の感覚や感情の法則に(のっと)った上に成りたつものですから純粋に自由性というわけにはいきません。 芸術家はその制作途上において感覚と感情に訴えるという手段を用いなければ自身の芸術的表現が完結しないという法則に拘束されてしまうのです。

 ところで人間がものを考えるときいったい何を基準にしているのでしょう。 美しいと思ったり、可愛いと感じたり、憎いと(うら)んだり、嫌な奴と(うと)んじるのは何故なのでしょう。 しかもそれが人それぞれ皆価値観が違ってしまうのは何故でしょう。 美しいものはだれが見ても美しいものでしょうか。 とすれば一人の美人を何万、何百万という男たちが追うはずです。 そうはなりませんね。 つまりそれは人間がそれぞれこれまで生きてきた経験によって取捨選択し(たくわ)えられた潜在意識を土台にいろなことを考えて生きる動物だからなのです。 つまり人間は思考の自由性もなく行動においても潜在意識に支配されている以上、その行動の自由性もまた失われているのです。 しかし観念の支配下にあっても妄想なり夢想なりあるいは純粋思考が、実行を伴わない、つまり自分一人の想念の世界だけに終始しているなら自由で、だれに迷惑を掛けるわけでなし構わないじゃないかという人がいます。 一見無害に思えるこの意見ですが、忘れてならないのは人間は思考によって、その行動と社会性を発生させている事実です。 ですから一人だけで考えていても、無人島で一人で暮らしているのでないかぎり社会との何かの接点があるはずですから、例え妄想と言えども自己管理の責任は生じるのです。
 ところで、妄想にも幾つかの種類があります。 一つは実際より自分を高く評価して妄想すること。 これはほんの少々高くするくらいでしたらかえって自分のレベルアップの効果もあるでしょうが、自分を律っせなくなると現実から逸脱した自分を作ってしまいます。 また自分をちょっと卑下したネガティブな妄想の場合は高慢的にならないようにも思えますが、これも自分を律しないと自分本来の実力が低下していってしまいます。 ですからこうした妄想は止めるべきです。
我々はあくまで自分のことをありのままに見るべきなのです。

 また私たちは、自分のこれまでの体験を振りかえって反省したり、いい思い出に浸ったりすることがあります。 その場合、自分の過去の過ち、犯罪、悪行、失敗等のマイナスイメージばかりを思いだす人と、成功、善行為などのいわゆるプラスイメージを思いだす人に分けられます。 これはどちらにしても過去の出来事を思いだすわけですから妄想ということではありませんが、それでもマイナスの暗いイメージを追う人はかなり悩み苦しむものです。 こうした感情は、これから先の生き方にも悪い影響を与え、心の成長を大きくスポイルしてしまう原因を作りだしていきます。 逆に、成功や善行為を思いだす人は、その度に喜びが湧いてきて、自分というものに自信が持てさらには生きる喜びが湧いてきます。 生きることに幸福感を抱くのです。 過去をネガティブに捉えるとすぐに妄想の部分へと移行し、心にもっとも悪い作用を起こす危険がありますし、人間の思考や行動の自由性を悪いほうへ、悪いほうへと束縛する原因となりますから、すぐ止めるべきです。

 過去に悩まないためにはどうするか? それは悪かったこと、間違っていたこと、(よこしま)だったことを心のなかで認めてしまえばいいのです。 人間はどこか自分が可愛く、傷つきたくないものですから反省したり、後悔することによって自分を慰めているのです。 これではいつまで経っても過去を忘れることは出来ません。 認めてしまえば、それでおしまいです。 そういうふうにして過去に悩まず、誤ちを改めれば、もうネガティブに悩むことはありません。 ポジティブな方向へ考えることは幸福の扉を開く道です。
 しかし、よく考てください。どんな高邁な思考であろうと賞賛すべき行動であろうとそれは人間の生きたいという執着から発生しているのではありませんか。
そう考えていくと人間には考えたり行動するときの自由は果してほんとにあるのでしょうか!?

幸福をもたらす考え方のポイント 

◎経典の言葉
Idha tappati pecca tappati-pâpakârî ubhayattha tappati,
Papam me katanti tappati-bhiyyo tappati duggatim gato.
Idha nandati pecca nandati-kata puñño ubhayattha nandati
Puññam me katanti nandati-bhiyyo nandati suggatim gato  (Dhaoapada 17 &18)
悪いことをした人は、この世で(現在)苦しみ悩み、あの世で(未来)苦しみ悩み、「私は悪いことをしました」と両世で苦しむ。悪いほうへ落ちこんで(地獄)ますます苦しむ。
善いことをした人は、この世で(現在)喜び、あの世で(未来)喜び、「私は善いことをしました」と両世で喜ぶ。善境地(天界)へ至って、ますます喜ぶ。(DhammapadaNos. 17 & 18)
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