パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.80 (2001年10月)
「無駄な責任転嫁」
〜すべては自分の責任であった〜
A・スマナサーラ長老

 自己責任について、初期仏教の立場がどのようなものかについて、考えてみましょう。他人に対して責任を持ちなさいと戒めるのは簡単なことです。言う側にとっては、優位に立っているような気もするでしょう。しかし、「責任を持ちなさい」と言う側にも、責任があると思います。言っただけで物事が解決するわけではないのです。

 自己責任というからには、他者責任というのも成り立ちます。世の中に起こる出来事の原因は、1.自分の責任、2.他者の責任、3.皆の責任という3つに分けて考えられます。また世の中では、良いことも悪いことも起こりますが、悪いことを減らしつつ、良いことが増えるように、皆努力しています。いずれにせよ起きた出来事が、完全に自分に原因があるならば、自己責任になります。また、完全に他者に原因があるからといって、「私には関係ない」と無視するのもよいこととはいえません。ですから悪いことが連続的に起こるならば、それを減らす為にできる範囲で行動することはよいことです。だからといって、自分と関係がないことにどこまで関わりを持つべきかも考えておかなければ、自分の安全が保てません。一方、皆の原因で起こる出来事については、皆で責任を持つべきなのは、言うまでもないことです。

 「責任を持つ」と言うときには、だいたい悪い結果をイメージします。「責任を持ちなさい」と言うと、その悪い結果を処理しなさいという意味になります。『責任』というとき、現代の我々の理解は、このくらいのものだと思います。責任という言葉はかなり狭い意味で定義されているようです。

 仏教の場合、責任とは、人間のこころの働きに根本的に備わっているものと見ています。こころの根本的な機能として見ると、誰ひとりとして責任を回避することは不可能ということになります。仏教における業の概念も、自己責任を意味しています。自分の意志で行った行為の結果からは決して逃げられないという意味を持っています。決して逃げられないと言うと、運命のようなものだと感じるかもしれませんが、責任を持つということはそれなりに対処するということですから、たとえ間違った行為をしても、悪い結果が出ないように努力することができるということなので、運命・宿命にはなりません。

 自己責任、他者責任、共同責任という3つを述べましたが、このなかで、一番大事なのは自己責任です。自分に対する全責任は、自分で持つべきです。物事について判断能力のない人は、いろいろなことを妄想して責任転嫁しようともがいています。責任転嫁はできないのです。

 たとえ何か間違いを犯してしまっても、誰も悪い結果を望みません。それは悪い感情ではありません。悪いことをしたのだから悪果は決まっているのだと諦めて、悪果を「寝て待つ」よりは、何かした方が賢いのです。悪い結果を防ぐために努力に励むのは、明るい思考です。無理な責任転嫁をしないで、その努力を実行すべきです。

 宗教の世界でも、責任転嫁が明確に見られます。人間の限りない悩み苦しみを、誰かの恵みによってなくして欲しいと希望する思考は、初期仏教から見ると責任転嫁です。また、人が「自分の力では決して罪滅ぼしできない」「こころの汚れを落とすことはできない」と思うときにも、責任転嫁のこころが隠れています。また逆に「自分一人で何でもできる」「他人は関係ない」と思うことは、あまりにも傲慢で、自我が強い人だというイメージで捉えられてしまいます。事実、自分だけの力でできることはほとんどないのです。ですから、自我を抑えることが善行為のように思えるのです。

 しかしここで、この自我を抑えるという行為について、注意しなければならないことがあります。ここには大きな落とし穴があるのです。つまり、自我を抑えることが、そのまま他の力に依存することになってしまう場合があるのです。そうなると、『自己責任』からはかけ離れてしまいます。自我を抑えることは本当はよいことなのに、結果としては、責任転嫁になってしまうのです。

 世の中に起こる出来事を、別の観点から2つに分けてみると、責任について理解しやすくなります。

ひとつは、
(A) 経済不調、災害に遭遇すること、病気になることなどで、外の世界との関係で成り立つものです。
   教育を受けて智恵を得ること、豊かになること、社会人として成功することも、外の世界との関わりによって成り立つものです。
   このような出来事について、「完全に自己責任だ」と言うのは正しくないと思います。

2つめは、
(B) 他と関わりを持って生きている自分のこころです。
   生きるということは、こころを持っているということです。
   こころに命令され、支配され、管理されて、生命は生きています。
   こころの機能がなくなったならば、からだは単なる物体です。
   自分のこころの働きによって起こる出来事の責任は、完全に自分にあります。

(A)の場合は完全に自己責任だとは言えないが、(B)の場合は完全に自己責任なのです。
人がよく悩んでいる「子供が言うことを聞いてくれない、人とうまくつきあえない、病弱である、いくら頑張っても人生は不幸の連続だ、自信がない、いい仕事や人に巡り逢わない」などの問題について解決方法を考える場合、祈りなどに無批判的に頼るよりは、これらの問題が(A)に入るか(B)に入るかを調べることで、正しい解決方法が導き出せるのです。

 問題が完全に自分の責任だけでない場合は、ひとりで悩むのではなく、まわりの状況を変える必要があります。逆に、自分の考え方、性格によって生まれた問題であるならば、完全な自己責任であり、自分で努力して解決すべきです。でもそれだけでは問題は終わりません。自分に関わりのある全ての出来事は、自分が生きているから現れるものです。自然のせいで自分がいる場所に地震が起きても、それに対応しなくてはいけないのは自分です。ですから、いかなる出来事についても、自分のこころの働きが一番大事なのです。つまり、全ての出来事に自己責任が成り立ちます。自分が汚れて不幸になるのも、人生を成功させて幸福になるのも、こころの働き次第です。ゆえに自己責任です。

今回のポイント 

◎経典の言葉
Attanâ'va katam pâpam - attanâsankilissati,
Attanâ akatam pâpam - attanâ'va visujjhati,
Suddhî asuddhî paccatam - n'añño aññam visodhaye. (Dh.165)
自分でおかした悪が自らを汚す。悪をおかさないならば、自らが清まる。こころが汚れるのも清らかになるのも自分次第である。他人に自分を清めることはできない。(Dh.165)
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