パティパダー巻頭法話
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No.81 (2001年11月)
「他人の為は『他人の為』か」
〜災難は『主義』が起こす〜
A・スマナサーラ長老

 「他人の救いの為に努力する」ということは、ほとんどの宗教で尊い道徳だと思われています。皆のために頑張る、皆を幸せにしてあげる、世界を、人類を救済してあげるなどの言葉は、どんな人でもすばらしい表現だと感じるのではないでしょうか。

 しかしよく観察してみると、以上述べたようなアイデアは不完全な表現であって、モラルを肯定しているのか否定しているのかはっきりしない曖昧な表現であると言うことができます。「他人の為」と思って行動しても、本当にそれが他人の為になるのでしょうか。あなたが人のためだと思っていることを、相手もその通りだと思っているのでしょうか。逆に相手が、それはまったく自分のためにならないと感じることもあるのではないでしょうか。無批判に、真剣に考えることもしないで、自分の好き勝手に「良い」と思ったものを、すべての人の為になるのだと思い込んでしまうのは、勘違いもいいところです。

 この現象は、宗教の世界や政治の世界でも確実に見られます。イスラム原理主義者は、自分たちこそ真の神を信じ、神の言葉に忠実であると信じ込んでいるので、聖典と違う解釈をする人、また、違う信仰を持っている人たちに対して「神を冒涜している」という論理を成立させるのです。そして神を冒涜するものに対して、神の教えに従い行動することは、人類のためになると思い込むのです。結果として、すべての人類に迷惑な存在となるのです。昔キリスト教の方々も、人類のためと思って世界を植民地化したり、宗教戦争を起こしたりしたのです。その結果、虐殺された人々の数はどれほどのものだったでしょうか。また、政治的な意見を持つことも、同じ結果につながるのです。自分たちこそ人類にとって正しい政治論を持っているのだと思い込んで、内戦、国と国との戦争、また世界戦争まで引き起こすのです。そういうことで本当に人類が幸せになるのかどうかと考えるべきです。また、まともな人間同士の間でも、犯罪とまでいかなくても、日々トラブルが起こります。

 その一方で社会福祉、ボランティア活動などに一生をかける立派な方々がいます。人に何か主義を教えるのではなく、貧困や病いで苦しんでいる人々を助けようと努力している人々です。日常の、より具体的な苦しみをなくそうとするのですから、決して悪いことではありません。こちらの意志で他人に食料や治療を提供しているのです。受ける側もそれを望んでいます。ですから「大きなお世話」「ありがた迷惑」にはなりませんが、そこで起こる問題は、福祉活動で人類の苦しみをなくせるか、ということです。世界は、「己こそ正しい」主義で、他人に限りのない苦しみを与えているのに、何人かごく少数の人々が社会福祉活動などに努力しても、山火事にバケツ一杯の水をかけたほどにもならないのです。外の世界の苦しみがあまりにも大きくて、踏ん張っても踏ん張っても期待するほどの結果が出てこないのです。他人の苦しみをなくそうと努力する人々が、疲れ果てて終わるという結果にもなりかねないのです。

 ですから、人類の苦しみを作る根本的な原因を見い出して、それを取り除けば、人類は幸福になるだろうと思います。人類の苦しみのいちばん大きな原因は人間の『主義』なのです。正しいか正しくないかも知らず、人間は何らかの主義を持つのです。自分の生き方をその主義に基づいて構成するのです。いったん何かの思想体系が頭に入ると、他人の思考パターンは間違っているように見えます。自分が、マインドコントロールされた状態になるのです。人々を幸福にするはずの宗教思想、哲学思想、政治学、経済学などが、結局は人間を、互いに憎しみ合うよう、殺し合うようにおとしいれていくのです。人類のこころの中に、差別意識を根づかせるのです。平和になるはずだったのに、人類の歴史の中で、世界が平和になった時期はまったくないのです。このような事実があるにもかかわらず、我々はあらゆる主義や思考にしがみついているのです。こころに何かの主義が入ってしまったら、善悪の判断は無理なのです。正しい判断ができない人の世直し行為は、あまりにも迷惑です。

 人間のこころは、基本的に間違っているのです。世の中で、善と悪の戦いはありません。善は、悪と戦うほどの『悪人』ではありません。常に悪が悪と戦っているのです。どうせ勝つのは強者だから、悪と悪との戦いで、より強い悪が勝つのです。客観的に人類の歴史を見ると、強い悪の方がいつでも勝ち抜いていったことがわかると思います。「正義は必ず勝つ」という言葉は一度も現実になったことがなかったので、希望を言っているにすぎないのではないかと思いたくなります。しかし、自分が「正義」だと思っているものが、本当に正義かどうか知っているのでしょうか?

 こころは貪瞋痴で汚れているので、客観的に物事を判断できません。自分の好きなものは、たとえ悪いものであっても良いもののように見える。自分の気に入らないものは、たとえ良いものであっても悪いもののように見える。このように我々には判断能力がないのです。我々の『感情』が、どちらにするべきかを決めるのです。怒りや憎しみに目がくらんだら、相手が極悪人に見えます。欲に目がくらむと、相手が善人に見えるのです。アフガン人と原理主義者たちにとって、ラディンは善人で、アメリカ人は悪人です。アメリカ人にとってはラディンが世界一の悪人です。誰が正しいかを決めるのはむずかしいのです。殺された人の数で判断しようとしても、どちら側も互いに負けないと思います。
 では我々はどうすればよいのでしょうか。

 世の中の悪と悪との戦いに引き込まれないようにしましょう。善と悪の判断もろくにできないにもかかわらず、他人を救おうと思って他に迷惑をかけることもやめましょう。世を救おうと踏ん張ると、自分のこころの汚れを直す暇が全くなくなります。その上自分が行った世直し行動も正しいかどうかわからないのです。ですから、他人に対しては、「生命を差別することは一切やめて限りない慈しみを育てるように」とお釈迦さまがおっしゃったのです。これが安全な対応です。他人に対しては慈しみの行為のみを実践しながら己のこころの汚れをなくし、智恵を開発して真理に目覚めることが先決です。

今回のポイント 

◎経典の言葉
Atta dattham paratthena - bahunâ' na hâpaye,
Atta dattham abhiññâya - sadattha pasuto siyâ.(Dh.166)
他人の為になる行為でも、やり過ぎて自分を犠牲にしてはならない。何が自分の為になるかを熟知して、それにもつとめましょう。(Dh.166)
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