パティパダー巻頭法話
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No.85 (2002年3月)
「人は皆、歌舞伎役者です」
〜他を騙す行為で自分が騙される〜
A・スマナサーラ長老

 自分はきれいに演出しなくてはいけませんね。
「自分が気楽でいたい。他人を気にして生きてなどいられない」と思って、好き勝手なだらしのない服装や、生活習慣などを身につけてはいけないのですね。それは他人にとっていい迷惑です。

人の服装、話し方、生活習慣、好き嫌いなどは、「人間は自由だ」という謳い文句に乗って自分本位で行うより先に、その行動が他人に迷惑か迷惑でないかを調べなくてはならないと思います。

 これは、他人の目をばかり気にして行うときは苦痛になります。とにかく自分をアピールしようと行うときは、逆に他人にいやがられます。自分を美しく演出することは、自分に対しても、他人に対しても、こころから生まれる優しさの結果でなければいけません。そうなると、演出することは自分にも楽しいし、他の人にも楽しくなるのです。

 美しく見せることは大事であると、ほとんどの人々は知っています。自分の子供に誕生日のプレゼントをあげるときでさえも、そのままはだかであげるのではなく、きれいに包装するのです。それは常識です。プレゼントの中身より包装にお金をかける場合は「やり過ぎ」です。美しく演出しないと相手に対して失礼だという考え方があります。考え方によって人の気持ちは変わるので、この習慣を大事にしなくてはならないのです。

 美しく見せることは、礼儀正しいということは、仏教から見ても全く反論が成り立たないと思いますが、仏教は一般常識だけで止まらないということは、もう既に皆様方もご存じの通りです。

 人間は「礼儀」というところで行為をストップしないで、「やり過ぎ」というところで踏ん張っているのです。
なんでもかんでも、如何に美しくみせるかを教えてくれる専門家がいます。才能がなくて演出する技を身につけられないで、精神的に悩んでいる人もいます。美味しいだろうと思って高級フランス料理を食べようと決めたので、先ず専門家から行儀作法を習う(でしょう?)。食べる時は慣れない行儀作法で緊張ばかりして、家に帰ってカップラーメンで満腹することになったら、何かおかしいと思われるでしょう。現在活躍している歌手なども、必要とされるのは歌唱力ではなく、歩き方、話し方、身振り手振りの可愛らしさ、踊りなどでしょう。結局は上手に歌えなくても良いみたいですね。

 このように、この世の中を見ると、みな中身より見た目だけに力を集中していることがわかると思います。見た目、外見、外の殻を余計に気にすると、中身の質が当然落ちるのです。「品質を厳密に気にするのだ」と言いながらも、名前に、ラベルに、ブランド名に走ってしまうのです。

 忙しいのに、身体の外側の、皮膚のメインテナンスに時間を余計に費やすのです。体の健康状態も無視してダイエットする人もいるのです。精神的に混乱してしまって過食症、拒食症などにもなるのです。服を体に合わせるのではなく、服に身体を合わせるのです。おしゃれしすぎて、階段を上れないで転けてしまった人も見たことがあります。産業の世界を見ても、能力の七割ぐらいを武器とおしゃれにつかっているのです。とにかく「やり過ぎ」。

 私たちはそこに、「(かぶ)る」世界を発見することができます。何かで自分を被るのです。自分をそれによって隠すのです。違う自分を見せるのです。これは「礼儀」のレベルを脱線しています。人々は持っている能力以上に自分を見せようと必死です。国々も同じことをしているのです。これらの行動は相手を騙す」行為なのです。他を操、誘惑する、威嚇する、脅す、抑える、支配する、管理するために、より大きく自分を見せることを実践しているのです。

 自分の行為によって、他人を騙すより、自分自身が騙されてしまっている場合もあります。豊かさを演じようとしたところ、自分が本当に豊かだと勘違いして借金地獄に陥る人も倒産する人もいるのです。若さを演じている間に、自分が本当に若いと勘違いして病気で倒れる場合もあります。自分が強くて凶暴だと見せていたところで、本当にそうだと自分自身が騙されてしまってひどい目に遭うこともあります。アフガニスタンのタリバン政権とアルカイダのテロ達が良い例です。他を騙したかったのに、自分が自分によって騙されるのは、笑い話ではなく、残念なことです。これもまた精神的な病気です。

 我々が生きているこの世界は、全体的に宝塚的で、歌舞伎的です。みな必死で演じているのです。他を騙そう、より大きく、より美しく、より力強く演じようとしているのです。同時に我々は視聴者でもあります。騙す、騙される世界です。本当の状態は、誰も、誰にも見せないのです。

 誰も人の本当の顔を知らないのです。本当の思考を知らないのです。本当の気持ちを解らないのです。自分も一生歌舞伎役者でいるから、本当の自分を発見する暇も余裕もないのです。また、それを見たくもないのです。

 演じ続けてきた幻覚の世界にやがて自分が隷従することになって、一生幻覚の中で生きるのです。それ自体が大変な苦しみの世界です。一生緊張して生きることになっているのです。もしも、誰かがこの「被り」の下に隠れている自分を発見したら、大変なことになるのです。

 強がりの人に、「あなた、弱虫でしょう」と言ってみて下さい。美しく外装をまとっている人に「あなた、ブスでしょう」と言ってみてください。大変な結果になるはずです。(例として出しているので、実行しないで下さい。そんなことを言うのは礼儀ではないのです。)「侮辱だ、非難だ、名誉毀損だ、差別だ」等の反応がくると思います。

 お釈迦さまが、自分の「(かぶ)り」を破って本当の自分を発見して下さいと説かれるのです。
常に舞台衣装でいる本当の自分は、それほど格好良くないかもしれません。気持ち悪くなるかもしれません。

 それでも見て下さいと仰るのです。
他人の被りを破ることは大きなお世話です。自分の被りを破ってみることを説くのです。
やりたくない、隠しておきたい、知りたくないとわがままを言うと、一生醜いままで終わるのです。汚れたままで終わるのです。

 お釈迦さまが世俗的な生き方に疲れて嫌になっていた時、あるできごとが起きたのです。
釈迦王子のために音楽、踊りなどで楽しませる芸能隊が、24時間いつでも演奏できるようになっていました。
彼らは夜寝ないでいる王子の前で一生懸命に演奏をしていたのですが、王子はつまらなくなって寝たのです。芸能隊も、そのまま寝てしまいました。

王子は夜中に目覚めました。
天女の如く美しかった人々が寝乱れて、餓鬼道の餓鬼達のように醜い姿でした。
王子はそれを見て、「この世は幻覚だ」と、その瞬間で出家を決めたのです。

お后のことやその日に生まれた息子のことで悩んでいたのに、その束縛も瞬時に消えたのです。

 また、ある王子がBimbisâra王国の地方の争乱を抑え、そのご褒美として、一週間のあいだ芸達者の美しい花魁(おいらん)(たまわ)ったのです。

ところが7日目に、その花魁は、踊りながら心臓発作で倒れて死んだのです。発作の苦しみで、大・小便を垂らして死んでしまったその姿にショックを受けた王子に、お釈迦さまは「この世は舞台のように飾っているものだと知るならば苦しみがない」と説かれたのです。

今回のポイント 

◎経典の言葉
Etha passath′imam lokam - cittam râja rathûpamam,
Yattha bâlâ visîdanti - natthi sango vijânatam(Dh.171)
さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。
愚か者はそこに耽溺するが、知る人はそれに執着しない。(Dh.171)
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