パティパダー巻頭法話
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No.87 (2002年5月)
「釈尊の日」を祝う
〜仏陀の出現は至上の幸福〜
A・スマナサーラ長老

Happy Wesak Day!

 5月はテーラワ−ダ仏教徒にとって特別の意味をもつ月です。この月の満月の日(今年は26日)から、新しい年が始まるのです。西暦の場合はキリストの降誕が起点になっていると言われますが、仏暦の場合は何から始まるのでしょうか。南伝仏教では、釈尊の降誕、成道、入滅を三大事としています。いずれもウェーサーカ月の満月の日に起こったことと信じられているのですが、仏暦の年数はこの三大事のひとつ、釈尊入滅から数えられています。今年は、それから2546年目の年にあたります。

 今述べた三大事が同じウェーサーカ月の満月の日に実際に起こったかどうか実証できないではないか、別々の日に起きたことなのだ、と研究者たちに言われたとしても、テーラワーダ仏教徒は問題にもしないでしょう。それほどに長い年月の間、テーラワーダの国では、この日を釈尊を祀る日として、最大のスケールでブッダ祭りを執り行い、その伝統を受けついできたのです。たとえばスリランカでは、お灯明ひとつであったとしても点(とも)して、すべての人がこの日を祝います。外国に住んでいる人も勿論です。年賀状の交換もこの日にします。というわけで、私もまたこの日を寿ぎ、釈尊を讃えたいと思います。

 釈尊の降誕、成道、入滅がなぜ同じ日とされたのか、よくはわかりませんが、これら三つのことが宗教的に同じ意味合いをもつということなのではないかと、私は考えています。釈尊は釈迦族の王子Siddhatthaとして生まれましたが、それはこの世における最後の生であり、以後輪廻転生はないという意味をもっていました。成道もまた、言うまでもなく輪廻転生して苦しみが続く原因を滅尽したということであり、入滅は、大般涅槃に入って輪廻を終えたことです。教理の上からすると、このようにこの三大事は同じ意味をもっているのです。

 「天上天下唯我独尊」という言葉は、日本でもよく知られていますが、釈尊は生まれたその日に、7歩あるいて右手を挙げ、この句を口にされたと、南伝仏教でも北伝仏教でも伝えられています。生まれてすぐに人はあるけるだろうか、言葉を話せるだろうかと疑問に思うかも知れませんが、どんな宗教にもそういうあり得ないような話がたくさんあります。釈尊についても、普通には理解しがたい出来事がいくつもあると、中部経典No.123に記されています。釈尊が普通の尺度では決してはかり得ない方だったということを、その様な表現で示そうとしたのだと考えることもできます。ですからそれを実証しようとしても大して意味がないと思います。

 経典には、今述べたように菩薩(釈尊)は生まれてすぐに7歩あるいて偉大な言葉(âsabhim vâcam)を話したとあるのですが、この言葉は非常に傲慢だと受け取る人もいます。しかし、これは傲慢ではなく菩薩の「勝利の宣言」であると思います。

 釈尊は、生まれてすぐに四方八方を見渡されました。そしてご自分が最高の境涯に生まれたことを知って、それで次のような言葉を述べられたのです。

 Aggo'ham asmi lokassa 「私はこの世で首位にある。」
 Settho'ham lokassa 「私はこの世で最も優れている。」
 Jettho'ham asmi lokassa 「私はこの世で最年長である。」
 Ayam antimâ jâti, na'tthi dâni punabbhavo. 「これが最後の生存であり、以後再びこの世に生を受けることはない。」

 これは淡々と事実を語っている菩薩の「勝利の宣言」として、テーラワーダ仏教徒は見ているのです。

 この場合は、生まれたばかりの赤ちゃんが大胆な言葉を言ったと受け取るのではなく、教理的に理解するのがよいのです。釈尊は、すべての生きとし生けるものが存在の苦しみから脱出する方法を発見されたのです。生命あるものの思考パターンは、苦しみの屋上屋を架するやり方でしか幸福を追求することができないものになっているのです。魚がどんなに頑張っても陸を歩くことができないように、苦の問題は解決できないでいるのです。その解決しがたい壁を、一人の人間(釈尊)が打ち破ったのです。「悟り」を発見したのです。釈尊が、悟りを開く前から人間として桁違いの能力をもっておられたからこそのことと言わなければなりません。

 この偈は、「類い稀なる人間がこの世に生まれた。この方は私達に幸福に至る道を教えて下さるのだ」という釈尊に対する絶対的な信頼を、赤ちゃんの釈尊にこのように語らせることによって示そうとした言葉だと思います。菩薩が生まれたというだけで、世の中の人々は安心するのです。 テーラワーダ仏教徒は、この偈をウェーサーカ祭りで楽しく口ずさみます。

 こんな話も経典にあります。 Keniya という異教徒( jatila )の修行者が釈尊と比丘たちに食事のお布施をすることにしました。その支度をしていたところへ、Selaというバラモンの長老がやってきます。彼は Veda 聖典のすべてに通じており、300人の弟子がいました。 Sela 長老が Keniya に尋ねます、「 Magadha 国の Bimbisâra 王でも招待するのですか。」 Keniya は、「いいえ、ブッダに供養するのです」と答えます。「ブッダ」という言葉を聞いて、そのバラモンの長老は驚きました。 Veda 聖典では、ブッダ(世界で最高の人)には身体に32の徴しがあるとされているのですが、ひとつふたつならいざ知らず、32も揃ってある人がこの世に存在するなんて考えられもしません。そこで Sela 長老は、弟子たちにその32の徴しがどんなものかを教えて、それが釈尊にあるかどうか調べさせます。弟子たちは30の徴しを発見し、 Sela も釈尊に会ってそれを確認しますが、残りふたつについては疑問に思いました。それを知った釈尊は、衣に覆われていた残りふたつの徴しを Sela に見せます。 Sela は、この世に稀なる偉大な人物が現われたことを確信するのですが、しかしなおブッダとしての厳密な証拠が欲しいと思います。

 Selaは、偉大なる人物は讃えられると心の状態を顕すはずだと思い、釈尊に問います、「あなたの身体を観察すると完全なる人であることがわかります。そんな人は行者でいるべきではない。人類の王になるべきではないのか。」釈尊はお答えになります、「 Sela よ、私は実に王である。最上位の法王である。私は真理に基づいて統治している。その真理を逆転することは誰にもできない。」
 ( Râjâham asmi Selâ ti Bhagavâ, dhamma râjâanuttaro,
 dhammena cakkam vattemi, cakkam appativattiyam. )
 - Suttanipâta 554

 両者の長い対話の最後に、釈尊は次のように説かれます。「知るべきはすべて知った。実践すべきはすべて実践した。捨てるべきはすべて捨てた。故にブッダと称するのだ。」「私への疑いを捨てて、信頼しなさい。正覚者に出会うのは希有なことなのだから。」(Suttanipâta558-9)

「バラモンよ、かくなる私は正覚者という偉大な医者なのである。」
 ( so ' ham brâhmana sambuddho sallakkhatto anuttaro )
 - Suttanipâta 560

 ブッダの教えは、筆者にとって命よりも大事な宝です。それに出会えたのはこの上なく幸せなことであったと思っています。皆さまにも正覚者である釈迦牟尼仏陀の祝福がありますように。 

(文責:葛西征子)
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