パティパダー巻頭法話
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No.89 (2002年7月)
病人は他人に薬を飲ませる
〜自己観察しなければ無知は破れない〜
 Do not look out, but watch your steps
A・スマナサーラ長老

 自由に空を舞う鳥たちに網をかけたら、その網を破ってもう一度自由になることは、鳥たちにもできません。一見強そうに見える鳥たちにも弱点があるようですね。人間にとって、無知を破ることは並大抵なことではないという例えに、お釈迦様はこの鳥の話を使っておられます。ビニール袋でもナイロン製の網でさえも、いとも簡単に破って好きなエサを手に入れる馴染み深いカラスは、とても強そうに見えます。キツツキは、どんな木にも穴をあけられるドリルを持っているので強く見えます。しかし、この強そうにみえる鳥たちでさえも、自分自身が網にかかったら、それを破れないのです。

 われわれ人間も、他人の無知や愚かさに対しては、声を高くし、世界一賢い人間のツラをしてしゃべりますが、自分の無知にはまったく気がつかないのです。すべての生命が無知の網にかかっているのです。お釈迦さまは「この世は盲目である」と説かれます。「世」というのは生命のことです。いかなる情報でも簡単に手に入り、宇宙までも制覇しようとするほど科学技術が発展している現代を生きる人間にとっては、この言葉は大変無礼な表現に聞こえるかもしれません。しかし、衣食住薬でさえ十分に手に入れるためには死ぬ思いで頑張らなくてはならない現代人の生き方は、ブッダの立場から見ればそれほど賢くは見えません。

 輪廻は矛盾だ。死んだ生命が生まれ変わるはずはないんだ。それは単なる信仰だ。業なんかないんだ。宇宙、すべての存在はビッグバンから始まったのだ。生命はどんどん増えているのだ。そうだとするとこころは増えているのではないか。増えるはずがないのだから、こころというのはただの脳細胞の反応であって、こころというものがあるわけがないのだ……等々、断定的に言う人々もいますが、自分の知識レベルでそんな断定ができるものだろうかと考えもしないのです。

 普通、遠くにあるものは望遠鏡で調べ、肉眼で見えない小さなものは顕微鏡で調べます。ところが、望遠鏡で微生物が見えない。だから微生物は存在しないのだ。顕微鏡で宇宙の星が見えない。だから星は存在しないのだ……と言っているようなものです。知りたいものに適した『知る方法』があるのだというあたりまえの方法論からも逸脱していることにさえ気がつかないのです。とにかく他人のことであるならば、強く厳しくうるさくものを言う。そのくせ自分のことになると何一つわかっていないのです。

 仏教は、すべてのものは、無常で一時的で瞬間しか存在しないもので、その瞬間の存在さえもあらゆる因縁によって組み立てられた現象にすぎないと説いています。この話を正しく理解するならば、『すべてのもの』と言えば『私』も含まれているということなのですが、その事実を皆、見事に忘れるのです。生命はどのように現われたか、輪廻はあるのかないのか、生命は有限か無限か等々、皆、気楽に考えますが、無限大まで考えても納得のいく答えにはたどり着かないのです。ただの時間の浪費です。いくら考えても、自分自身の悩み苦しみ不満はそのままです。ですから、このような無駄なことを考えることなく『自分』と言ってもそれは一時的な現象のみであるという事実に気づくこと、それこそ正しい行うべき、有意義な探求なのです。その事実に気づいた人のみ、苦しみを脱出するのです。

 ブッダがこのような話を民衆に語っていたあるとき、16才の貧しい機織りの家庭の娘が、この話を聞いて、真剣に自分が無常であることを観察しました。一方、知識人であった多くの民衆は、「話はよくわかりました」というだけの反応で終わってしまいました。正しい視点をもらってものごとを考え始めた少女には、時間とともに真理が見えるようになりました。

 釈尊は、時期を見て、またその同じ民衆に説法をしようと出かけました。皆ブッダを囲んで待っていましたが、ブッダは何も語らず、ただ待っていたのです。とても遅くなって、少女が走ってきました。すぐにお釈迦さまは、「君、どこから?」とたずねられました。少女は、「わかりません」と答えました。「ではどこへ行くの?」「わかりません」「本当にわからないの?」「いえ、わかっています」「では、わかっているのだね」「いいえ、お釈迦さま、ぜんぜんわかっていません」……お釈迦さまの質問に、彼女はそんな風に答えたのです。そのやりとりを見ていた民衆は、身分も低く貧しいこの少女の失礼な態度に激怒して、罵声を浴びせました。釈尊は皆を静めて、少女に説明するように頼んだのです。

 彼女は、「釈尊はくだらない世間話はなさいません。瞬間瞬間変化生滅するこの『私』というこの現象について質問されたのです。『私』という現象は、どこから来たか、どこへ変化しつづけるかを聞かれたので、それはわかったものではないので『わかりません』と答えたのです。しかし、死ぬということは確かにわかっているので、『わかっています』と答えましたが、いつ死ぬかはわかりませんので、『わかりません』と答えたのです」。彼女は皆に、ブッダに代わって説法したのです。釈尊は、君ひとりしか私の質問の意味をわかっていないと少女を誉め、「この世は盲目である。観察する者は少ない。網を破って自由になれる鳥が少ないように」と話されました。自分を観察しない人には、浅く狭い知識でいくら頑張っても、仏教はわかりません。

今回のポイント

◎経典の言葉
Andha bhûto ayam loko _ tanuk' ettha vipassati
Sakunto jâla mutto 'va _ appo saggâya gacchati (Dh.174)
生命は盲目である。観察する者はまれである。
網を破り自由になれる鳥が少ないように、天に至る(解脱を得る)人は少ない。(Dh.174)
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