パティパダー巻頭法話
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No.94 (2002年12月)
賢者の言葉は簡単です
〜仏陀は誰もが理解できるように語ります〜
 Words of wisdom are simple.
A・スマナサーラ長老

 釈尊の教えは、簡単でわかりやすいと誰もが思っています。残されている経典を読んでみると、ほとんどが、とても合理的であることがわかります。仏教を勉強する人々は、この合理性に惹かれ、釈尊の教えを自分なりに解釈したり、批判したりするのです。現代書かれている、初期仏教に関する文献は、ほとんどがこのような著者の理解と解釈をあらわしたものです。そしてこの文献を読む人々も、仏陀の知識はとても簡単に理解できるものだと思うのです。さらに、自分には理解できない他の思想や哲学と比較して、仏教のあら探しにもチャレンジするのです。「釈迦はたいしたことを教えていない」と言う人もいます。「全ての悪をしないこと、善を行うこと、こころを清らかにすることが仏陀の教えです」(Dh.183)のような言葉を読むと、「誰でも知っている単純な教えじゃないか」と思ってしまうのです。「人生は苦だ」「全ては無常だ」といわれると、「な〜んだ、誰でも知っていることじゃん」と言いたくなるでしょう。このような気持ちになる人には「読みがあまりにも浅い」としかいえないのです。

 仏陀を理解していると思われた瞬間、以下の疑問を思い出してみましょう。「あなたは苦しみを乗り越えたのですか」「あなたのこころには何にもとらわれること、ひっかかることはないのですか」「あなたのこころには、貪りも怒りも無知も、二度と現れないように消えたのですか」「あなたのこころは完全なる安らぎを経験していますか」「あなたのこころは、絶対堕落することはないと確信できますか」……これらの問いに「はい」と答えられるなら、仏陀を確かに理解していることになります。

 仏陀は、脳細胞だけで理解できる人ではありません。今まで誰にもできなかったことにチャレンジして、成功した人です。苦しみを完全に乗り越えた人です。全ての疑を解決した人です。釈尊は、自分が発見した真理(解脱、涅槃)は、生命の認識範囲を超えたものであり、理屈だけでは理解できないものだと説かれています。釈尊は、「真理」について話すときにはいつも、uttari manussa dhamma(人間の理解範囲を越えた真理)と、形容詞をつけて話されています。しかしこの真理を、理解不可能なもの、仏陀(神)にしかわからないものだとは言っておられません。努力すればどなたにでも、完全なる平安なこころがつくられるとおっしゃるのです。人は怠けと無知のせいで、苦しみの悪循環から脱出できないのです。怠けず、努力するならば、智恵が現れるのです。智恵のある人には、仏陀が説く真理を発見できるのです。ですから、真理は pandita vedanîyo( 賢者には理解できる)ということになるのです。

 ではなぜ、仏陀の教えは、わかりやすいような気がするのでしょうか。釈尊は智恵の完成者ですので、人に理解できるようにお話しをされるのです。ぺらぺらと、相手がわかってもわからなくても、興味があってもなくても、自分が知っていることをしゃべり尽くすようなことはしません。「私はえらいのだ」「認めてくれ」と思うこころの不安は、まったくなかったのです。ですから、「あなたは何を説く人ですか」と聞かれると、「それはあなたに理解できないので、ご自分に何か問題や疑問があるなら、それを私に出してみなさい」と答えたのです。釈尊は、我々の次元で説法するのです。我々の苦しみ、悩みを明確に分析して、解決法を教えてくれるのです。強いて言えば、仏陀が「私のこころ」を語っているのです。「私のこころ」の弱点、問題点などを示して、解決法を教えてくれるのです。だからこそ、仏陀の話を理解できないというならば、それが不思議です。しかし、仏陀を勉強する人々は、「解決法を実行する」ことはまったくせず、頭だけで理解しようとするのです。仏陀が話す解決法を実行してみれば、仏陀は実際に、超越した真理を語っていたこと、すべての生命の認識範囲を超えていたことが、自分自身の経験で理解できるのです。

 仏陀の教えが簡単で単純だと感じてしまうのは、我々が立派な知識人だという証拠ではなく、仏陀の智恵が超越したものだという証です。知識人が、どれほど気をつけて何かを語っても、異論が成り立ちます。矛盾も見いだすことができます。しかし、仏陀の言葉には、異論も矛盾も成り立ちません。他人に情報を伝える道具である『言葉』は不完全なものです。何かを相手に伝えようと話しても、相手が別の意味で受け取るのは日常茶飯事です。それから生まれるトラブルも少なくありません。しかし仏陀は、この問題を解決しながら語ったのです。言葉を使うときには、自分が思っている意味ではなく、相手が使っている意味で使っています。また、仏教用語といえる言葉には、いつも定義をつけておくのです。それでも仏陀の教えは、完全には納得、理解できないはずです。人を超越した真理に導くために、涅槃へ導くために、実践させる余裕を残しておくのです。たとえば、皆さまが知っている「憎しみは憎しみを返すことでは消えません。慈しみによって憎しみは消えるのです」(Dh.5)という言葉にしても、それを知っているだけでは何の意味もないのではないでしょうか。我々が慈しみを実践してはじめて、その真理がわかるのです。仏陀の言葉はすべてそのようなもので、理屈だけでは理解しきれないものです。

 では仏陀とは何者なのでしょうか。人間のもついかなる概念をあてはめても理解できない存在です。仏陀は一切の苦しみに打ち勝った人です。その勝利は、誰にも打ち負かすことができないものです。仏陀が獲得した涅槃という平安は、絶対的なもので、二度と苦しみに陥ることはあり得ないのです。疑を破って、智恵を完成した仏陀の能力ははかりしれないものです。ですから、仏陀を理解しようとするより、仏陀の教えを理解して、実践することが誰にとっても無難で平安な道なのです。

               (A.スマナサーラ)

今回のポイント

◎経典の言葉
Yassa jitam nâvajîyati, jitamassa no yâti koci loke;
Tam buddham anantagocaram, apadam kena padena nessatha.  (Dhammapada179)
仏陀の勝利は破れない。この世のすべての誘惑はその勝利に降伏する。
 無辺無思量の仏陀に値する概念はない。その仏陀を如何なる言葉で理解できるのでしょうか。(Dh.179)
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