パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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No.95 (2003年1月)
こころの檻を壊す
〜欲を絶つと能力は無制限〜
 Craving imprisons the mind.
A・スマナサーラ長老

 仏陀の智恵は人間の知識でははかりしれないものです。仏陀の悟りの境地も、言葉で表現したり、知識で理解したりできるものではありません。悟りを開いてすぐ、釈尊は大きなジレンマに陥りました。

『真理は誰も知らない。自分が人類で初めて真理を発見して、完全なる安らぎを体験している。それを皆に教えて、苦しみを乗り越えるために、指導する必要がある。しかし、この深い真理は、他人に語れない。たとえ語ったとしても、理解することは大変むずかしい。そうなると、私の努力は何の結果も生み出せない、無駄な行為になる。それならば一言も語らない方がよいのではないか。しかし、すべての人が理解してくれなくても、理解できる、欲の少ない智恵ある人々は、何人かでもいるのではないか』……その何人かの人々のためにでも、説法をしなくてはならないと思って、このジレンマから抜け出したのでした。

 先月号にも書いたように、仏陀の教えが単純明快で、容易に理解できるような気がするからといって、簡単だと誤解してはいけないのです。45年間、釈尊は伝導を続けたのです。これは簡単な仕事ではなかったのです。最初は、興味がある特定の人々に涅槃への道を説かれたのです。長い間修行の経験があった人々に対してさえも、説法はむずかしかったのです。なかなか理解されませんでした。

 宗教、修行の専門家にさえ理解しがたい教えを、釈尊は一般の人々にも伝えようとチャレンジに出たのです。しかし、仏教では、「一般人向き」「専門家向き」という区別はありません。一般人のために、教えのレベルを下げることもなかったのです。そうなると、大衆に嫌われて無視されるのは、当たり前の結果と考えられます。しかし仏陀の教えは、皆に愛されたのです。仏教を信仰しない人々さえも、仏法を尊敬したのです。説法を聞いた人々はほとんど、悟りを開きました。知識人にも理解しがたい話を、レベルを下げることなく、一般大衆に理解できるように話す。この事実も、常識では理解しがたいものです。

 仏陀は、摩訶不思議な先生でした。奇跡や超能力を見せて人を圧倒するのは、ずるい手段です。それは知識人に嫌われる、いかがわしい方法だと釈尊は言います。真理を、知識と具体的なデータに基づいて、常識として納得してもらわないといけないのです。仏陀は、この方法を選んだのです。

 真理を悟ったからといって、仏陀は、頑固になることはありませんでした。王様たちから一般人まで、人々の日常の生き方、それぞれの人の悩み苦しみ、人生観などを観察し続けたのです。他宗教の行者たちとも仲良くして、彼らの思想、修行方法、最終目的などをよく理解しておいたのです。ですから、仏陀は誰とでもすぐに心が通じました。人は誰でも、「釈尊は自分のことをよく知っている」「自分のことを誰よりも心配してくれる」「自分の幸福を釈尊が期待している」と思っていたのです。ですから、仏陀の教えを素直に理解して、修行に励んで、大勢の人々が悟りを開き、苦しみを乗り越えたのです。それが、仏陀が摩訶不思議な先生になった秘密です。

 一切の固定概念からこころを解き放った仏陀は、ほかのどの生命よりも柔軟性を持っていたのです。「私は知っているのだ。だから、あんたの話なんか聞くもんか」という態度はなかったのです。人が言った言葉の意味が曖昧で、わかりにくくなった場合も、格好をつけて何でもわかっているというような顔はしなかったのです。そのときすぐ、言った本人から、明確な意味を教えてもらうのです。偉大なる先生と言える人は、偉大なる生徒でもあります。仏陀も偉大なる生徒でしたので、他人のこころの問題を簡単に理解したのです。その上、真理そのものも自分で発見して、苦しみの問題を解決しているので、他人に教えて指導する場合は最高の能力を発揮するのです。

 偉大なる生徒といっても、結局は、仏陀が世間から教えてもらうものは何ひとつないのです。仏陀は説法に必要な情報収集をなさっただけなのです。その情報を分析して、問題点を見い出して、解決方法を導き出すということなら、仏陀の右に出る者はありません。 現代を生きている私たちにとっても、情報はいちばん大事な財産です。現代の競争の世界では、一秒でも先に情報を得た人が勝つのです。だから、たくさんの情報を受け入れられるよう、頭脳の容量が大きい方がありがたいのです。しかし今は、頭脳の発展を怠って、機械に頼っている次第です。次に必要なのは、情報の管理と分析能力です。それができる人は、世界ではあまりにも少ないのです。分析できても「ではどうすればよいのか」という解決方法を見い出せないと、何の役にも立ちません。この能力がある人は、とても稀なのです。腰が抜けるほどの知識人は世の中に限りなくいますが、問題が起きたら、解決方法を見い出せなくて皆お手上げです。悪く言えば、知識人というのは、知識遊びをしているだけかもしれません。

 仏陀は、自分の容量の大きさ、情報の分析能力、問題の解決能力などが、なぜ無制限にあるのかを説明しています。それを学べば、私たちにも無知を脱出することができると思います。仏陀は何にもとらわれないのです。何かにとらわれたら、そこから抜け出せないのです。そうなると、能力も固く、狭くなるのです。世の中の人々が、何か一つの分野だけを勉強することになるのは、こういうわけです。一つにとらわれると、他のものに対する興味がなくなるのです。何かに執着するのは欲があるからです。いくつかに執着して学ぼうと思っても、欲が増えるので、苦しくなって、かえって能力が消滅してしまうのです。欲と怒りがあると、こころの働きは制限されます。つまらない目標を立てて、死にものぐるいで苦労することになります。そして目的を達成したら、それ以上何もやりたくなくなるのです。まったく欲のない仏陀のこころは、無制限に機能するのです。知識を増やしたい人は、執着と欲を減らすべきです。

今回のポイント

◎経典の言葉
Yassa jâlini visattikâ - tamhâ natthi kuhiñci netave;
Tam buddham anantagocaram,
apadam kena padena nessatha.  (Dhammapada 180)
網のように広がりこころを束縛する欲は(仏陀には)存在しない。
無辺無思量の仏陀に値する概念はない。
その仏陀を如何なる言葉で理解できるのでしょうか。(Dh.180)
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