パティパダー巻頭法話
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No.98 (2003年4月)
一言で知る仏教の全て<1>
〜釈尊もインスタントの方が好きでした〜
 The truth is always simple.
A・スマナサーラ長老

 私たちは何でも、簡単にインスタントに理解したがるものです。分厚い本などを何年もかけて勉強したり研究したりして理解するよりは、「この一冊で全てが分かる本」を持って通勤電車に乗り、最寄り駅で降りるまでに読み終えて理解したいのです。我々はひどく忙しいのです。そのうえ、理解しなければならないことも山ほどあります。怠けて情報を得ないようにすると、競争の激しいこの社会から弾き出されてしまいます。我々の生活に欠かせないのはインスタント食品ばかりではありません。「この一冊で全てが分かる本」というようなインスタント本もまた、大変ありがたい存在になっています。

 仏教を勉強しようとしても、おびただしい数の経典注釈、解説などがあって、それらを全てきちんと理解しようとしたら一生を費やすことになってしまいます。仏教は自由にものごとを考える世界ですので、仏教思想も多伎に分かれて発展してきたのです。どんな思想体系が正しいのかなんて、そう簡単に言えたものではありません。仏教も、この姿勢を改めないのであれば、忙しい現代人に敬遠されることは避けられないのです。仏教はこの問題をかなり早い時期から自覚していました。インスタントなもので何でも済ましてしまおうとするのは現代人に特有な態度と思われがちですが、実はそうでもなかったのです。実は仏教徒は昔から、インスタントに仏教を理解しよう、修行を済まそうと頑張っていたのです。

 特に大乗仏教になってくると、この傾向は顕著に現れています。大乗の思想を哲学として理解するには膨大な時間が必要となります。しかし仏教の祖師たちは、題目を唱えたり、念仏を唱えたり、真言・呪文を唱えたり、只管打坐したりというやり方で、仏教をインスタントに理解し実践するための見事な方法論を作り出しました。

 この点では初期仏教も負けていません。沢山の経典を勉強しなくても、たとえ一日だけでも修行するならば、その人は優れているという立場を取っています。パチンと指を弾く位の時間(瞬間)でも、慈悲・サティ・呼吸冥想などを実践するならば、この上のない徳を得られるのだと説いているのです。悟りの道であるヴィパッサナー冥想について説かれた『大念処経』の最後には、たった一週間ほど修行すれば悟りが開けると強調されています(D.II.315,M.I.63)。

 どんな宗教でも、信仰するものに永遠の幸福の地を約束していますが、それを得られるのは、死後か最後の審判の時です。気が狂うほど長い時間、待たなければならないのです。しかし釈尊はインスタント主義で、今すぐ結果が得られなければ信頼できない、という態度を取ります。ですから仏法とは sanditthiko すぐに結果が得られる、 akâliko 時間がかからないものなのです。

 「良家の人は出家して間もなく (na cirasse'va)、今世のうちに(dittheva dhamme)、修行の完成(悟り)に達します」と釈尊は強調するのです。釈尊の時代から仏教はインスタント主義で、「安い、早い、美味い」という現代のセールスポイントとそれほど変わりはなかったのです。

 インスタント食品は健康に良くない、という意見は間違っている訳ではありません。安いものになると、品質についてもうるさいことを言えなくなるからです。それではインスタント主義の仏教も人類にとって何か有害な因子を持っているのでしょうか。教えのレベルは低いものなのでしょうか。それだけは仏教が他の「インスタント」のものと違うところです。結果は世界中のどんな教えよりも早いのですが、人類にとって有害な概念は一切ないのです。仏陀の教えほど高品質な思想は、この世には存在しません。

 ここで「一言でいえば仏教とは何なのか?」という問題が出てきます。一言では言えませんが、三言でなら言えます。
 「一切の悪を犯さないこと。善を行うこと。こころを清らかにすること」。これが諸仏の教えなのです。簡単ではないか、何が高度な思想ですかと思われるかもしれませんが、仏教は実践論ですので、曖昧な人格では決して実行できない教えだと思います。しかしこの三つを実践してみれば、完全なる人間になることは確かです。

 「悪を犯さない」生き方を実践するには、悪とは何なのかということを理解しなくてはいけません。聖典や古典には、大昔に出来上がった悪のリストがあります。しかし、聖典・古典に書かれているからといって、すなわち悪にはならないのです。今ここで私が行う行為自体が、善になるか悪になるかと、常に現場で注意深く判断しなくてはいけません。昔の時代に出来上がった悪のリストは、もしかすると現代には悪にならない可能性もあります。昔、悪だと思わなかった行為が、今は、悪い結果をもたらす悪行為になっている可能性もあります。それから、昔も今も一貫して悪と認められる行為もあります。悪を犯さないということは、・一貫して世の中で悪と見なされる行為は絶対に犯さないこと。・いまの瞬間にする行為が、善になるか、悪になるか、常に判断して行動することです。この判断をするためには、世の中の出来事についての深い理解が必要になります。常にこころの目を開いておかなければなりません。これが智恵の開発になります。教えは簡単ですが、実践すれば、最高レベルの思想を持っている人格者になることは間違いありません。

 「善を行う」という一文の意味も同じです。しかし、何かひとつ良いことを選んでそれを守るだけでは人は向上しません。釈尊の言葉を直訳すれば、「善を行う」のではなく、「善に至る」ことなのです。善に至る人は、「今日は昨日より善い人間になる」と励むのです。それなら人格向上は確かなものになります。

 なぜ人は、悪いことなら、犯したくてたまらないのでしょうか。なぜ、良いことをする気に全くならないのでしょうか。それは思考が乱れているからです。思想があべこべになっているからです。こころが汚れているからです。自分の行為を改めるのは素晴らしいことですが、こころが汚れたままでは、やり遂げることはできません。ですから、三番目に「こころを清らかにすること」と説かれているのです。こころから悪を犯す無知を抜き取ってしまえば、「悪を犯さず、善を行う」という努力さえもいらなくなるのです。一言でいえば、「仏教とはこころを清らかにすること」です。

今回のポイント

◎経典の言葉
Sabba pâassa akaranam - kusalassa upasampadâ
Sa citta pariyodapanam - etam buddâna sâsanam. (Dhammapada183)
一切の悪を犯さないこと。 善に至ること。
こころを清らかにすること。 これが諸仏の教えである。(Dh.183)
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