ジャータカ物語
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEジャータカ物語→老夫婦の話
老夫婦の話

 この物語は、釈尊がサーケータ城近郊のアンジャナ林におられたとき、一人のバラモンについてお説きになったものです。

 お釈迦さまが僧団の比丘たちを伴って、サーケータへ入られたとき、サーケータの都に住む一人の年老いたバラモンが、都の外に出ようとしていて内門のところでお釈迦さまと出会いました。

 バラモンは足下に跪いてお釈迦さまの足首をしっかりとつかみ、

「これ息子よ、子というものは両親が年老いたら面倒をみて養うものではないのかい!どうしてこんなに長い間、私たちのところへ来なかったんだ?今日はやっとのことでお前をみつけることができた。家に来てお母さんにも会ってやっておくれ」

と言って、お釈迦さまを案内して家に連れて帰りました。お釈迦さまは家に着いて、比丘たちとともに用意された席に坐られると、バラモンの妻もやってきて、お釈迦さまの足下に跪き、

「こんなに長いあいだ、あなたはどこに行っていたのですか?、両親が年老いたら息子は世話をするものですよ」

と、むせび泣きました。また息子や娘たちを呼んで、

「さあ、ここに来てお兄さんに挨拶しなさい」

と言って、お釈迦さまに対して挨拶をさせました。バラモンの老夫婦は大変満足して多くの布施を喜捨しました。

 お釈迦様は食事を終えられると二人のために「老経(ジャラー・スッタ)」(スッタニパータ四ー六)を説かれ、説法が終わったときには二人とも不還果の悟りに達しました。

 お釈迦さまは席から立たれると、そのままアンジャナ林にお帰りになりました。比丘達は講堂に集まると、

「友よ、あのバラモンは、お釈迦さまの父君はスッドーダナ王、母君はマハーマーヤー妃であると知っていながら、妻とともに、お釈迦さまを『私達の息子』と呼び、お釈迦さまもそれに同意なさっていた。いったい、これはどういうわけなのだろう……」

と話を始めました。彼らの会話を聞かれたお釈迦さまは、

「比丘達よ、彼らはふたりとも、まさしく自分の息子に対して『息子よ』と呼びかけたのである」

と言って、過去のことを話されました。

「比丘達よ、かのバラモンは昔五百回の生涯のあいだ引き続いて私の父親であり、また五百回の生涯のあいだは叔父であり、また五百回の生涯のあいだは祖父であった。またバラモンの妻も昔五百回の生涯のあいだ引き続いて私の母親であり、また五百回の生涯のあいだは叔母であり、また五百回の生涯のあいだは祖母であった。
 かくして私は千五百回の生涯にわたって、かのバラモンの手によって育てられ、千五百回の生涯にわたってバラモンの妻の手によって育てられたのだ」

と、三千回の生涯のことを語られ、次のような詩句を唱えられました。

その人に会えば気持ちが落ち着き
また心がなごむならば
以前に会ったことがなくても親近感を感じる
そのような人には、人は進んで親しむだろう

 このように、お釈迦さまはこの説法を取り上げ、過去の生涯と現在を結びつけられました。「そのときのバラモンとバラモンの妻は、やはり現在のあのバラモンの老夫婦であり、息子はじつに私であった」と。
 

◎スマナサーラ長老のコメント

 私たちにも時々、似たようなことが起きた覚えがあるでしょう。まったく初対面の人であるのに、幼なじみのように、仲良くなってしまう。考え方も、好みも驚くほど似ている。相手が初対面であることにも気づかず、つい馴れ馴れしく話したり、いろいろと行動を共にしたりします。

 逆に、兄弟で一緒に育てられたのに、まったく相性が合わない。仲良くすることができない。兄弟というより、激しいライバル同士のように生活する。会社で何年も一緒に仕事をしていますが、馬が合わず、犬猿の仲になっている人たちもいます。

 このようなことは、教育の問題でも育ち方の問題でもありません。自分の社会的な立場とまったく合わないにもかかわらず、意外な人と仲良くすることもあるのですから。

 映画「釣りバカ日誌」の、仕事熱心でない万年平社員のハマちゃんと社長のスーさんのような関係は、社会では決して珍しいことではありません。

 このように、相性がぴったりはまる現象というのは、どのように説明すればよいのでしょうか。仏教の考え方によると、「過去からの因縁」だと言うしか方法がないのです。人間にとってはこのような出会いがあったならば、大変幸せなことだと思います。やけに気が合う人に出会ったならば、余計なことを考えず仲良くした方がよいと思います。

 人間の社会では、知識人とそうでない人、金持ちと貧しい人、立場がある人とそうでない人、国民と外国人などの概念がありまして、互いに区別して、仲良くしないための理由を探すのです。仲良くするために、無理に同じグループの中で人を探すのです。それであまり深入りしない人間関係ができるのです。例えば、知識人同士の付き合い、金持ちの集まりなどです。この場合は、かなり苦労しない限りは、良い気楽な人間関係は成り立たないのです。

 人が人間関係で苦労しているのは、同じグループの人とたとえ相性が合わなくても仲良くしなくてはいけないという、概念に縛られているからです。違うグループの人と付き合う場合も、人間が概念で縛られて無理をすることもあります。

 例えば「外国人とも仲良くしなくてはいけない、異国の文化も理解しなくてはいけない」という概念で、自分が置かれているグループと違う人と付き合おうと思って努力する人もいる。このような場合も自然な人間関係ではなく、概念に縛られて行動するので、いろいろと無理が生じるのです。

 男、女、日本人、外国人、老人、若者などの枠の概念をまったく気にしないで、ただ「相性が合う」という理由だけで人間が付き合う仲間を作るならば、最高に楽しい、心が安らぎに満たされる人間関係が成り立つでしょう。お互いに長い間仲良くしていると、互いの気持ちが通じ、性格が合うようになります。

  「長い間」というのは、仏教では、今生だけの何年間かの付き合いではなく、輪廻の中で幾つもの生涯を共にするということです。(やはり何十年間の付き合いは、相手の心をよく理解するためには足らないということでしょう。)

 お釈迦さまが、ご自分がお生まれになったインドの北の方のカーシー国とはかなり離れた、南方のサーケータ城に住む年老いたバラモンに突然、息子扱いされて叱りつけられた時、あなたに会ったこともないと反論することもなく、素直に話を聞いて、そのバラモン夫婦に短い時間でも親孝行してあげました。互いの心の中に、親孝行だという気持ちがあったので、お釈迦さまが素直に一切の自分の立場についての枠の概念に縛られることもなく、仲良くしたのです。

 我々にも枠の概念を気にせず、気が合う人々と素直に付き合うことができれば、幸せではないかと思います。
 

『ヴィパッサナー通信』2001(H13).1号 より
HOMEジャータカ物語→老夫婦の話
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.