ジャータカ物語
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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愚か者の話
ジャータカ物語 Nangaliîsa jâtaka(No.123)より

 この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ラールダーイ長老について語られたものです。

 彼は法話を語るとき、その場に相応しい法を選ぶことが出来ませんでした。おめでたいときに、死者を供養する法要で使う経典で説法をしたり、人の葬式に参加したときに、人間にとって幸福とは何か…という経典に基づいて延々とおめでたい話ばかりしたりしました。

 そこである日、説法場において比丘たちは、「友よ、ラールダーイは説法するときはあまりにも見当違いの説法をするのだ」と話し始めました。するとお釈迦さまがおいでになって、「比丘たちよ、ラールダーイが愚鈍で、話をするのに相応しいことも相応しくないことも判らないのは今だけではなく、以前にもそうであった。彼は実に常に愚か者である」と言われて、過去のことを話されました。

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 その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、裕福なバラモンの家に生まれて成長し、タッカシラーで一切の技芸を身につけ、バーラーナシーで四方に名の広まった先生として五百人の若いバラモンに技芸を教えていました。そのとき、彼ら若者たちのうちに、一人愚かで智慧の劣った若者がいました。何も習得することが出来ず、下僕のように菩薩である先生の身のまわりの仕事をしていました。

 さてある日、先生は夕食をすませてから、寝床に横たわりました。その若者が先生の手と足とを揉み、香油を塗って帰ろうとしたところ、先生は、「寝床の足に支えをして帰りなさい」と言いました。そして、先生が朝起きて、傍に座っている彼を見て、「一体何をしているのか」と尋ねました。「先生、寝床の支えが見つからなかったので、自分の腿で支えて坐っていたのです。」先生は驚きました。「ああ、私の弟子の中で、この人は最も知能が低いのだ。何とかして技能を会得するようにしなくてはならない。」

 そのとき、彼はこのように考えました。「私はこの若者が薪とりや木の葉集めに行って帰って来たとき、『今日おまえは何を見て、何をしたか』と尋ねよう。すると『今日私はこのようなものを見て、このようなことをしました』と答えるだろう。そうしたら、彼に『お前が見たりしたことはどのようなものか』と尋ねると、彼は『このようなものです』と、譬えや原因をもって、語るだろう。このように次々に新しい譬えや原因を話させていれば、その方法で学ばせることが出来るだろう」と。「若者よ、今日から、薪とりや木の葉集めに行ったところで、おまえが見たこと、貰ったもの、飲んだもの、食べたものがあれば、帰って来てからそれを私に話して聞かせなさい。」彼は、「かしこまりました」と承諾しました。

 ある日、彼は若者たちとともに薪とりに森のなかに行ったときに蛇を見たので、帰って来て、「先生、私は蛇を見ました」と言いました。「それでは、蛇とはどのようなものか。」「蛇は、鋤の柄のようなものです。」「よく出来た。お前の譬えは、よく出来ている。蛇というのは、たしかに鋤の柄のようなものである。」そこで菩薩は、「うまく譬えが言えたから、見こみがあるかもしれない」と考えました。若者は、別の日に森のなかで象を見たので、「先生、私は象を見ました」と言いました。「象とは、どういうものか。」「象は、鋤の柄のようなものです。」先生は、「象の鼻は、鋤の柄のようで、牙もまたそのとおりである。彼は、詳しく語れなくて鼻や牙に限定して言えなかったのだろう。」と、何も言わずにいました。

 またある日、招待されて氷砂糖を食べたので、「先生、今日私は氷砂糖を食べました。」「氷砂糖とはどんなものか。」「氷砂糖は、鋤の柄のようなものであります。」先生は、「少しはそのように見えなくもない」と黙っていました。またある日招かれて、果糖と凝乳を牛乳と共に飲みました。彼は帰って来て、「先生、今日私は、凝乳と牛乳と果糖を飲みました」と言って、「それはどのようなものか」と問われると、「鋤の柄のようなものです」と答えました。

 先生は、「この若者が、蛇は鋤の柄のようであると言ったときにはうまく言えたと思った。また象が鋤の柄のようであると言ったときにも、鼻か牙なら似ていると思った。氷砂糖が鋤の柄のようであると言ったときも、ほんの少しは似ていると思ったが、しかし、凝乳と牛乳とは、入れられた容器の形そのものになる。ひとつの譬えを、すべての場合にあてはめることは不可能である。この愚か者を指導することはとうてい出来ない」と思って、次の詩句を唱えました。

 人たるものは、精進するべきである
 言葉の適用範囲は限られている
 愚か者はひとつの言葉を
 全ての場合に当てはめようとする
 彼には、凝乳も鋤の柄も区別がない

 お釈迦さまはこの説法をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの愚か者はラールダーイであり、四方に名の通った先生は実にわたくしであった」と。

◎スマナサーラ長老のコメント

【この物語の教訓】
 知能が低い人にも、自立が出来るくらいのことは教えてあげなくてはいけないのです。既成の教育制度を全ての人に適用することは出来ません。自分に合わない教育方法にはめられて、必要なことを学べないでいる、本来は頭の鋭い若者たちも、世にいくらでもいるのです。固定した教育方法は、いくら立派であろうとも被害者をも作り出すということを覚えておきましょう。
 ひとつの固定概念で世の中の全ての現象を理解してやるぞ、と思っている人々が多いのです。しかし、これはとても危険なことです。「神は唯一である」「我らこそ真の神を信じている」「我らの聖書のみ神の言葉で真理である」と愚か者たちが甚だしく勘違いして、世の中の人々の平和な生き方を脅かす。テロ活動などで多数の人命を奪う。また、戦争、報復攻撃などで、関係がある人もない人も、無差別に殺す。地球の財産を自分たちだけのために略奪しようとする。
 ものごとは、時と場合によって理解するべきです。全ては変化しているので、固定概念などは成り立たちません。世の中に起こる全ての問題を、コーランのみの教えで、聖書のみの教えで解決することは出来ません。問題に応じて社会学、心理学、哲学、科学、医学、政治・経済学、なども適用しなくてはいけないのです。
 何よりも大事なのは、人間の理性なのです。自由にものごとを考えて、自分で判断が出せるような能力さえあれば、ほとんどの問題に解決策が見つかるのです。
 このエピソードの菩薩も、知能の低い自分の弟子に、何はなくとも人間に絶対必要な理性と自分で物事を考えられる能力だけは与えようとしたのです。

『ヴィパッサナー通信』2001(H13).11号 より
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