ジャータカ物語
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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古井戸の話
Jarudapânajâtaka(NO.256)
アルボムッレ・スマナサーラ長老/編集:高橋清次

 この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、サーヴァッティー在住の商人たちについて語られたものです。
 
 商人たちはサーヴァッティーで商品を仕入れ、車に満載し、商売をするために出かけるとき、如来を招待しました。大布施を行ない、帰依して戒を保ち、お釈迦さまに礼拝し、「世尊よ、わたしたちは商売のために長い道中を参ります。商品を売って成功し、無事に帰って参りましたら、ふたたび世尊にご挨拶申し上げましょう」と言って、旅立ちました。商人たちは難路を行く途中で、古井戸を見つけて、「この井戸には水がない。しかし我々はのどが渇いている。この井戸を掘り下げてみよう」と言って、掘っている間に、相次いでたくさんの鉄や瑠璃等を手に入れました。商人たちはそれで満足して、その財宝を車に満載し、無事にサーヴァッティーに帰って来ました。商人たちは持って来た財宝を収蔵し終わって、「わたしたちは成功した。お釈迦様に食物を捧げよう」と思い、如来を招待し布施を行った後、礼拝して片隅に坐り、自分たちが財宝を得た様子をお釈迦さまにお話ししました。お釈迦さまは、「あなたたちウパーサカ(男性信者)は、その財宝で満足し、適量を知っていたので、財宝も楽な生き方も手に入れたのです。しかし昔、満足せず、適量をわきまえず、賢者の言葉にも従わないで生命を失った者がありました」と言われ、商人たちに乞われて、過去のことを話されました。
 
 その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はバーラーナシーで商人の家に生まれました。やがて成年に達して、隊商たちの長となりました。彼はバーラーナシーで商品を仕入れ、車に満載して、たくさんの商人をつれて、その同じ難路に差し掛かり、その同じ井戸を見ました。そこでそれらの商人たちは、「水を飲もう」と言って、井戸を掘っているうちに、相次いでたくさんの鉄等を手に入れました。彼らは財宝をたくさん手に入れたにもかかわらず、それに満足しませんでした。「ここには他に、これよりも素晴らしいものがあるであろう」と言って、いま一層深くその井戸を掘りました。そのとき菩薩は商人たちに言いました。「さあ、商人たちよ、貪欲というものは破滅の根源です。わたしたちはすでにたくさんの財宝を得ました。これだけで満足すべきです。掘り過ぎてはいけません。」商人たちは菩薩に制止されたにもかかわらず、なおも掘り続けました。しかしその井戸には竜が棲息していました。そのとき、その井戸の下に住んでいた竜王は、自分の宮殿がこわされ、土塊や塵芥が落ちて来たとき、怒って、菩薩を除くすべての商人を一人残らず鼻息で打ち殺してしまいました。彼は竜宮から出て来て、車を仕立てさせ、財宝全部を満載し、菩薩を乗り心地のよい車に乗せ、若い竜たちに車をひかせて、菩薩をバーラーナシーに案内して家に入らせた後、財宝を順序良く収蔵させて、自分たちの竜宮に帰って行きました。菩薩は財宝を売り、たとえば鋤で畑を掘る場合は余すことなく掘るように、インド全土に遍く布施をし、戒を受けて斎戒を行ない、やがて生命が終わったとき、天界に生まれました。
 
 お釈迦さまはこの過去のことを話されてから、悟りをひらいた人として、つぎの詩句を唱えられました。
 
 水を欲して 古井戸を掘る商人たちが
 鉄・銅・すず・鉛を掘り当てた さらにたくさんの
 金・銀・真珠・瑠璃も掘り当てた それでも満ち足らず
 さらにさらに掘り続けた商人たちは
 猛毒をもつ蛇王の
 威厳の炎によって 忽ち死滅した
 だから掘りなさい
 掘り過ぎはやめなさい
 掘り過ぎは罪である
 掘る者は財を得る
 掘り過ぎは破綻する

 
 お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの竜王はサーリプッタであり、隊商の長は実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓
 
 「知足」は、仏教では大事な概念です。幸福を目指す人々は、人生設計するとき、知足という土台の上に構築するものであるということを、決して忘れてはならないのです。「頑張ればいくらでも儲かる。金はいくらあっても良い」などという考え方は、全くの本末転倒なのです。いくらでも儲かるんだといって、あらゆるものに手を出すと、何一つ管理できなくなるのです。商売繁盛どころか、大赤字を抱えたあげく破綻するのです。自分の能力のレベルと目的をわきまえてから商売する人は、成功するのです。その人は自分の夢を叶えて、豊かに生きることができるのです。
 
 仏教が、欲を「破滅のもとだ」と目の仇にしていることは、確かな事実です。そのことに反応して「欲がないと、何の商売もできない。だから仏教は、経済活動をする社会とは何の関係もない教えだ」と思うのは、一瞬先のことも考えられない俗世間の人間です。「商売するなかれ」と仏教で説かれたことは、一度もありません。「この世でもあの世でも、賢い人は幸福に生きるのだ」というのは、釈尊の言葉です。仏陀は、地雷があるところに旗を立てているだけです。人間はそれを見て、仏陀は先へ進みたい人を邪魔しているのだと苦情を言っているのです。人生は、貪り、怒り、競争心、嫉妬、裏切り、無知などの地雷で、埋め尽くされているのです。闇雲に「成功を収めたい」と思って人生を走る人は、地雷を踏んで破滅する恐れが高いのです。全てのものごとに対して悟っている仏陀の話を信頼する人は、地雷を避けて人生の道を見事に進んで、安穏の境地に至るのです。
 
 このエピソードに最後に出てくる偈に、「だから掘りなさい」という行があります。これは、知足の原理のもとで正しく経済活動をすれば、幸福になるので努めなさい、という意味です。あとの行には「掘り過ぎは罪である」とあります。人はたとえ環境を破壊しても資源がなくなっても、金儲けに狂って、ガン細胞のように事業を拡大するのです。人間が今の調子で進めば、幸福になるどころか、地球の生命がみな滅びるという恩恵にあずかるのです。ですから経済活動のやり過ぎは、生命の息の根を止めてしまう行為なので、罪なのです。「知足」の原理のもとに人生設計すると、地球上の人間も他の生き物も、地球が存在する限りは、どこまででも幸福に生き続けることでしょう。「掘り過ぎは破綻する」という言葉は、核兵器まで用いて戯れようとする、欲にイカレた現代人に対する忠告のような言葉です。

『ヴィパッサナー通信』2003(仏暦2547/平成15).8号 より 
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