根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 1

四聖諦①

アルボムッレ・スマナサーラ長老

まず本題に入る前に、皆さんがどうしても知っておかなければならない重要な問題があります。

これは一生かかかっても解けないかもしれない難しい命題ですが、徐々に徐々に理解していくほか、いまはいい方法が他にありません。人間のもっとも不思議な面というか、人間の人間たる存在理由の根本的意義というか―それは、心というものに対する定義です。

「心とは、いったい何でしょう?」あなたはこう問われたとき、すかさず明解な回答を返すことができるでしょうか。殆どの人が、いや全員がはっきりとした答えは出せないはずです。たとえ、ご自分では答えを出せたにしても、それが絶対ではないことは当のご本人も納得するはずです。医学的立場の人も、科学者も、文学者も、そしてもちろん宗教家も、これまで長い人類の歴史のなかで、“心”の解明と定義という命題と格闘してきましたが、21世紀を目の前にしても未だ定義づけは出来ておりません。

大体の人は、心=脳というふうに考えるようですが、痛さや食欲やあるいは記憶や計算力などはたしかに脳の働きによって成りたっているようにも思えますが、美しいものを見て感動したり、人の不遇を知って同情の涙を流したりする心の働きは、とても“脳”の働きという説明だけでは納得できないものがあります。喜びや悲しみ、怒りや悔しさといった感情は、いったいどんな心の働きによって生じるのでしょうか。

心を“意”と定義した宗教的解釈がありますが、心を脳と定義した解釈よりは本質を衝いているかもしれませんが、いったいどんな意味なのかよく分からないという欠点がこの解釈にはあります。

ここで一万語を費やしても、いま皆さんに“心”の明快な理解は不可能かと思います。しかし、この心というものの解釈がなされていかないと、釈尊の教え、ひいてはあなたがたの日々の宗数的な自己錬磨への道がかなり遠くなってしまうことも、また事実なのです。

実は、ヴィパッサナー瞑想は人間の心の動きを知り、自分の心と静かに向きあうことによって自分自身を観察し、物事を正しく見ていくためにあるのです。言いかえれば、心の正しいあり方を追求するためにお釈迦さまが自ら実践され、私たちに遺してくださったすばらしい方法なのです。

これからヴィパッサナー瞑想法をおやりになるにあたり、あるいは根本仏教を勉強するにあたり、心という存在に自分なりの解釈なり定義を見いだすことを頭の奥底において出発されると、より充実した習得があるとおもいます。もちろん、最初の段階では間違った解釈や、見当外れの定義になってしまうかもしれません。それはそれでいいではないですか。間違いに気がついたら、その時点で改めればいいのですし、焦らずに、少しづつ、少しづつ、勉強していけばいいのです。そのうちに、ご自分の成長と、心の変化にびっくりするようなことを必ず体験されることになります。

心の勉強をする最初として、私の言っている心とは、ふつう私たちが考えている意識的な働きを指して言っているのではないということを理解してください。いくら頭で分かっていても、自分ではどうしようもない、無意識とでも言える分野の働きのことです。大人と幼児を較べてみましょう。幼児は心の動きだけで自分を主張していますが、大人になると様々な経験から蓄積された観念によって物事を判断し表現しています。これは人間の成長を意味するのですが、実は、心だけは成長をしていないのです。

もう少し、例を変えて考えてみましょう。私たちは経験則によって、我慢するということを知っています。例えば、買いたいものがあってもお金がなければ買わないということや、泣きたいときでも人前では泣くことを控えるというように。でも、幼児はどうでしょう、そんなことは関係なく、買ってほしい、食べたい! と泣いてでも自分の主張を訴えるでしょう。大人も実はおなじなのです。いけないこととは分かっていても、つい「嫌な奴」と相手のことを憎んだり、嫉妬したり、怒りに胸を震わせたりするのはみんな心の働きですね。もっとも、そういう心の動きをたいていの人は表に示さない常識を持っています。時としては抑えることもできなくなって、外に出してしまうときもありますが……。こういう、自分でもコントロールできない心の働きを無意識の心と言うのです。もっとも、これは心というものの実体のほんの一部一氷山の一角に過ぎません。感情だけではなく、思考の面やそれこそ生き方全般に対して心の働きははまだまだ奥深い広大無辺な作用がありますが、ここでは、取りあえずこうした知識だけを頭にいれてこれからご一緒にいろいろと根本仏教とヴィパサナー瞑想の勉強をしてまいりましょう。

それでは四聖諦ということを考えてみましょう。

お釈迦さまはこの世の中を四つの理(ことわり)に分けて考えるように説明しています。

即ち、(Dukkha)じゅう(Samudaya)めつ(Nirodha)どう(Magga)のことです。
この“苦集滅道くじゅうめつどう”についてはおいおい説明してまいりますが、ここでは理解しやすくするために、四つの正しい真理と説明しておきましょう。
今回は四聖諦のなかでもとくに、苦 (Dukkha)についてお話したいと思います。というのも、仏教では、苦というものの認識を非常に重要視しているからです。

苦(Dukkha)は、仏教の世界では空しい、不満、不完全、無常、無我(実体なし)といった意味ですが、世界のいろいろな宗教のなかで、このような何か暗いイメージを説明の冒頭にもってきているのは仏教だけです。しがし、これはこの世の現実を見つめることから出発しようという仏教の教えのあり方を如実に示していることの顕れなのです。

だいたい宗教では、ふつう永遠不滅のものの説明から入るものです。それは、人々が宗教に超越的な力の存在を望むからです。しかし、永遠不滅なものとは何でしょう? 具体的に挙げられますか。この世にないものを求めて真の救いがあるものでしょうか。むしろ、永遠不滅なるものを捜し求めることに熱中することによって、逆に真理から逃避することになってしまっているのではないでしょうか。永遠不滅なるものを追いかけるということは、現実の眼前にある諸制度を一切無視してしまうことに繋がっていくものです。人間は元来弱い存在ですから、こうして一度現実から逃れはじめると、どこまでも逃げつづけなければならなくなっていくものです。

たとえば、自分の勇気のなさというものを考えてみましょう。だいたい、どんな人間でも自分の勇気のなさを認めようとしません。極端に言ってしまえば、宗教の永遠不滅なものに頼れば勇気が沸いてくると考えている人間も案外多いものです。しかし、そんなことからは勇気は沸いてきっこありません。むしろ、自分の勇気のなさを素直に認め、なぜ勇気が沸いてこないのか、その原因や、自分の性格の弱さを作りだしている心の正体を認識した上で、はじめて勇気のなさを克服する方法が見いだせるということになります。つまり、いま自分が置かれている現実を正しく見つめ、その対処法を見いだすことが大切なのです。ヴィパッサナー瞑想法は、そういう自分の現実を鏡に写したように見ることができる最良の方法なのです。

ちょうどいい機会ですから、これから幾度も出てくるヴィパッサナー瞑想法について
ちょっと説明をしておきましょう。

みなさんは瞑想というと、何かをじっと念じることだとは思ってはいませんか。そうではありません。ヴィパッサナー(Vipassanā)のヴィ(vi)は明確に、とか詳細にという意味で、パッサナー(Passanā)は観察するということを意味しています。即ち、ありのままを見るという意味になります。
ありのままを見るということはどういうことでしょうか。人間は何かをしたり考えたりする場合、どうしても潜在意識が観念となって思考のなかに人ってきて、なかなか夾雑物きょうざつぶつの混じらないまっさらな自分というものが見えてきません。ほんとは執着のない心でいることが理想なのですが、そんなことは厳しい修行をつんだ聖人にしかできない相談です。ですから手始めに、いまの自分の一挙手一役足を見る、つまりいまのありのままの自分を見つめることから始める必要があるのです。ヴィパッサナー瞑想法も奥が深くとても一朝一タに説明できるものではありませんが、取りあえずここでは、自分の潜在的なおもいをなくし、ひたすらいま現在の自分に気づいていくことを目的とするという認識だけを持ってください。

宗教には、現実とは違う不可思議な世界のことを扱うという、ある固定観念があります。

しかしそれで納得がいきますか。どこか怪しいと思いませんか。もし、不可思議な世界がほんとにあるなら、堂々とそれを著書などに顕せばいい。書物にしたところで、大体は教祖の特異な体験としての説明だけで終わりにしてしまっている。科学的な根拠らしいものは何ひとつ示されないのです。そのような教祖だけの体験と言ったって、妄想概念だけのことを大仰に言っているにすぎないことかもしれません。

よく観音さまをイメージして瞑想していると、やがて観音さまが出てくるという話を聞きます。しかし、どうしてある人には出て、全員に出ないのでしょう。観音さまがイメージのなかに出てくるというのは、実は危険なことなのです。わかりやすく言えば、狂おしいほどに愛している男女がいたとしましょう。女は寝ても醒めても愛する男のことを考えつづけている、そうするとやがて夢のなかや、うつつのなかに愛する男が出てきます。女はますます夢中になって男にのめり込んでいきます。実は、これは妄想現象なのです。自分の激しい思いが執着となって夢や心のなかにイメージとして出てきているに過ぎないのです。男女関係であればまだしも、これが観音さまとなると、妄想のなかに現れたにすぎない観音さまとは露知らず、あたかも自分が超能力者になったかのように錯覚し、願望成就というもっとも危険な道に踏み込んでいくようなケースが結構多いのです。新興宗教の教祖などにこういう人物が数多く見られます。これは瞑想法を誤った典型的な例証ということが言えます。

ヴィパッサナー瞑想法の実践では、まず心身とも元気に、健全に保つことが重要です。

ヴィパッサナー瞑想法をやっていると先ほど説明した妄想概念をいくらでも体験することになります。妄想概念は、それ自体一種の病気ですが、ヴィパッサナー瞑想法はあるがままの自分を見るということですから、妄想概念の中にいる自分というものがよくわかってくるのです。そうなると、妄想は自然に消えてなくなってしまいます。妄想状態にある自分に気がつくから、危険はまったくないのです。

さて、私たちのこの人生とはいったい何でしょう。生きるということは、どう言うことなのでしょうか。生きるというのは、光かがやくことですか。幸福を噛みしめることですか。あなたの毎日の生き方は光かがやいていますか。幸福に満ち満ちていますか。残念ながら、答えはノーのはずです。この世は納得のいかないことの連続なのではないでしょうか。

ひとつの例を挙げましょう。あなたは世界チャンピオンを狙うボクサーとしましょう。あなたは頑張って、頑張って世界チャンピオンになりました。ところが、今度はあなたの王座を狙う敵が次々とやってきて、あなたは世界チャンピオンを狙ったときの苦労よりもっと厳しい苦労を強いられることになってしまいます。この苦しみは、あなたがボクサーを辞めるまでつづくのです。つまり、人間の一生はその自分の一生を終えるまで、苦労というものがつきまとってくるのです。
そういう現実を見ていくと、この世は決して光かがやくものでもないし、幸福に満ち溢れているものでもないということがわかってきます。こうした現実をはっきり見きわめることが重要であり、そのための方法としてヴィパッサナー瞑想法をお釈迦さまは教えたのです。(以下次号)