根本仏教講義
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20.ブッダの育児論
(1)両親は最初の先生
A・スマナサーラ長老

 今月から、新しい連載が始まります。
テーマは、ブッダの育児論ということですが、一番最初に言いたいのは、我々人間にはちょっと誤解があるということなんですね。我々は、よく勉強ができて、ものすごく頭がよくて、お金持ちで、有名になること、それが人生の目的だと思っているのです。

■一人前の人間ってどんな人?
 人間はどのように大きくなればいいのか。そのあたりの考え方について、我々には最初から直さなければならないことがあるのです。
普通の世の中でしたら、金持ちになれたらありがたい、有名になればすごくありがたい、頭がいい人だったらありがたい、そういう考え方を持っているのです。女性の場合は立派な家にお嫁に行ければありがたいことだと。そういう目的のもとに、我々は育児に手を出しているのです。 どんな親でも、自分の子供を成長させて一人前にしたいという気持ちは同じだと思います。問題は、成長した一人前の人間とはどういう人か、ということなのです。そのイメージ自体がすごくあいまいで、親に「あなたの子供はどういう大人、どういう人間になればいいか」と聞いてもはっきり答えられないでしょう。

 赤ちゃんのときだけ、たいていはこんなふうに言うんですね。「元気に明るく、大きくなるだけでいい」と。歩くことも喋ることもできない、何もできないときはそう言うのですが、その考え方はどんどんぐるぐる変わっていくのです。隣の奥さんが「○○学校は優秀だ」と言ったら、自分の子供もその学校に入れたくなるのです。またある人が「○○ブランドの洋服しか子供に着せません」と言ったら、自分もその店に行ってそのブランドの服を買う。またある人が「うちの子はピアノがすごく上手です。3歳のときから習い始めました」と言うと、自分の子供にもピアノを習わせようとする。そうやっていい加減なことばかり考えるようになるのです。親が、1日に4回も人生の目的を変えてしまうと子供はどうなりますか?

 それを全部しなければならない子供は被害者です。被害者のこともちょっと考えたほうがいいんじゃないかな、と思います。

 ですから子育ての話を始める前に、我々が一番最初に考えなければならないことは「成功した人生とは何か」ということなのです。そこを最初に決めてしまって、そこから離れないなら、子供にもわかるのです。「私はこの道を歩めばいいんだ」ということが。1日4回ぐらい人生の目的が変わってしまうと、子供の方が混乱します。朝は「音楽家になりなさい」、昼には「サッカーの選手になりなさい」、夕方になると「画家になりなさい」、夜には「政治家になりなさい」と言われると、わからなくなっちゃうんですね。

■楽しく気持ちよく生きる
 そこでまず「成功した人生とは何か」ということをお話いたします。たとえば自分の子供がオリンピックで金メダルをとったとする。楽しくてたまらないですね。金メダルをとって、お金も入って豊かになって有名になるかもしれませんが、もしその子がその人気のある生き方に対応できないタイプだったらどうでしょう?

 朝から晩までコーチに怒られて、怒鳴られて。外国に行って練習したり、1年に1度しか、それも30分ぐらいしか両親に会えない、そういう状態になるのです。もしその子がそういう人生になかなか対応できないなら、どんどん堕落してしまうのです。たとえば麻薬に手を出すとか。あまりにも希望を持たれて、たとえば身体が激痛するのに、色々な鎮静剤や薬を飲みながら訓練したりする。それで人生はだいなしになってしまうんですね。そんなとき、父親や母親は子供のことを正直に喜べますかね?

 人生が滅茶苦茶になっても、金メダルをとったことを喜べますか? それで人生は成功しているのでしょうか?

 わかりやすく言えば、自分の子供が億万長者になっても、人生が滅茶苦茶だったらどうか。母親が忙しくて家に全然いないとか、子供がどこにいるのかもわからないとか、家族がめったに顔を合わせないとか、そういう人生は幸せですか。

 よく覚えておいてほしいのは、仏教は、金持ちになったとか、頭が良くて偉い学者になったとか、そういうことで十分だとは認めないのです。ときどき、朝から晩まで研究室に閉じこもって子供の顔を見たことがない、という親がいるんですね。家に帰ると子供がもう寝ている。子供の顔も見ないで自分の仕事ばかりやっている。それを幸せな人生といえますか?

 ですから、世の中にある価値観を一度、全部捨てない限り、この問題は解決しないのです。 どうやって捨てるかと言うと、まず人間に生まれてきたんだから、ラクに、楽しく、幸福を感じながら生きることこそが大事なんです。どうにかこうにか生きているというのは、たいしたことではないのです。研究室から2時間しか外に出られないとか、1年の中で1日しか休みがないという人生は、人生ではない。自分の息子が総理大臣になると、それはありがたいと思う。でも総理大臣になっても、1日3時間しか寝る暇がないとか、ストレスがたまって病気になるとか、脳出血で倒れて1日、2日で死んでしまうとか。そういう人生は幸福と言えますか?

 一番大事なことは、気持ちよく、楽しく、気楽に、余裕をもって、リラックスして、笑いながら、笑顔で死ぬまで生きていられること。それが、仏教が人間に言っている人生の目的なのです。生きている間は、泣かないで、悔しがらないで生きてみなさいよと。神経質に、震えながら、脅えながら、泣きながら、嫉妬して、他人を憎んで生きていくこと、それで楽しいのでしょうか。それはあまりにも無知な生き方なのです。

 ですから親として子供に言うべきことは、「あなたが音楽家になろうが、画家になろうが、学者になろうが、科学者になろうが、政治家になろうが、サラリーマンになろうが、自由にしなさい。でも人間として豊かで心が広くて、憎しみ悩み苦しみがない落ちついた人間になりなさい。どんな仕事に就いてもこころに余裕をもって、しっかりと自分の責任を果たせるような人間になりなさい」と。それが親の仕事なんですね。現代の親たちはそこを忘れて、子供を学者にしてやろう、エンジニアにしてやろう、医者にしてやるぞと思っちゃう。それは、いわばお肉屋さんに手術を頼むことと同じなんです。だってお肉屋さんもちゃんと動物をさばいているでしょう。だからといって自分が盲腸になったとき、お肉屋さんに行って「私の盲腸をとってください、お願いします。あなた、手馴れたものでしょう」と頼んだらどうなるのですか。親たちもそれと同じようにとんでもないことをやろうとしているのです。

■親は子供の最初の教師
 親の仕事は、立派な人間を育てることであって、学者とか政治家とか音楽家とか、そういう人間を育てることではありません。親の責任はものすごく大きいのです。なぜなら、親の教育はその子が死ぬまで関係する、大事なものになるからです。どんな親でも覚えておいて欲しいことは、自分が教えること、子供にしつけすることが、その子が死ぬまで役に立つものだということです。学校で数学を勉強しても、それは一時的なものです。たとえエンジニアになっても、60歳で退職するまでの仕事でしょう。おじいちゃんになったときには、それまでの技術は全然役に立ちません。その頃はゲートボールでもできたほうが役に立つかもしれません。ですから、そういう人生の目的というのは本当に意味がないのです。それは仕事している間だけ必要なもので、その後は役に立ちません。ですからまず覚えておいて欲しいことは、親というのは死ぬまで子供に必要なことを教える先生であるということなのです。

 両親に対してお釈迦さまが使っているこんな言葉があります。Pubbâchariya 読み方はプッバーチャリア。この言葉をよく覚えておいてください。お釈迦さまの言葉ですからね。分析するとPubbaâchariyaの2つの言葉です。2つの言葉を一つに書きます。Pubbaというのは「最初、はじめ」という意味。Âchariyaというのは「教師、先生」という意味。両親とは誰なのかといえば、教師、先生なのです。だから、自分に子供が生まれてきたら、その両親にまず考えてほしいことは、これから自分が先生、教師になるということです。自分が最初の教師なのです。そこで自分が教えることが、その子が死ぬまで役に立つのです。学校の先生は最初の教師ではないのです。ある専門だけ教える教師なのです。それは一生役に立つということではありません。たとえ学校で国語を勉強しても、歳をとってそれを忘れたからといって、どうということはないのです。他の勉強も忘れても大丈夫です。危険はないのです。でも両親が教える勉強を忘れたら、そこには確実に危険があるのです。そういうわけで、両親にどのくらい大変な責任があるかということを理解していただければありがたいと思います。

 それと同じ言葉を子供にも言います。自分の両親は自分の最初の先生であると。ただ、なんでもわがままを言って、欲しいものをねだれば何でもくれる存在ではなくて、お母さん、お父さんというのは先生である。だからちょっと厳しいし、気をつけなくちゃいけないということも、子供は勉強しなくてはいけない。これは大事なことなのです。

 なぜこの話をしたかというと、我々が幼稚園や小学校に行って、最初に出会った先生が機嫌が悪く、ひとかけらも親切心がなく、ちょっとしたことで怒ったりするいやな人だったら、その子は一生学校がいやになるでしょう。先生と聞いたとたん、ものすごくいやになるのです。私も、実際そういう人々を知っています。頭がよくて勉強ができる、そういう能力は見えるのです。でも勉強しない。途中で中退するのです。学校を中退した若者何人かと付き合ってみたら、この人たち、けっこう頭がいい。すごく鋭い。判断能力もあるのです。そこで私は「なんであなたは学校に行かないのですか。学校ぐらい卒業した方がいいでしょう」と聞いたのです。そうしたら「○○先生がこう言ったんだ。自分がやってもいないことを、調べようともしないで、自分がやったとさんざん言われ、批判されるんだ」と言うのです。しかも、他の子供が何か悪いことをしたら、まず疑われるのは私なんだと言う。それでこの子は学校に行くことをやめてしまった。そういうケースをいくつか見てきましたから、やっぱり先生がひどいと、ものすごく大変なことになるのです。

 一番大変なことは、最初の先生がいい加減な人だったらどうなるかということです。つまり、両親があまりにも無責任な人で、いい加減な人だったらどうなるのでしょうか。世の中を見ると、親を殺す子供がいるでしょう。子供に殺されたというケースを調べてみてください。ほとんどの場合は親がだめなんです。賭け事にふけっているとか、ろくに仕事もしないとか、子供に何でもかんでも怒るとか、そういう、性格ができていないろくでもない親、それが「最初の先生」なのです。それで子供に殺されてしまうのです。子供の方が、我慢できなくて。なぜそんな悲しい出来事が起こるかというと、最初の先生が自分の役目を果たしていないからなのです。

 「私は母親だ、私は父親だ」と思ったらうまくいかないところもあります。ですから小さい子供を持つ両親が何を考えるべきかというと、「私は教師だ」と思って、教師として子供に必要なしつけをした方がいいんじゃないかな。そうすると教師にはよくわかるのです。いたちごっこみたいなもので、子供は勉強したくない、教師はそれでも教えてあげなくてはいけない、という遊びのゲームなんですね。子供は逃げる、先生は何とか追って勉強させようとする。塾とは違います。

 塾というのはちょっと不自然なところですね。あれはちょっとした店なのです。教育を売って金を儲ける店です。美容室や薬局と同じような店なのです。我々は薬局に行って「カツ丼ちょうだい」とは言わないでしょう。薬局に行って「カツ丼をくださいよ。何をやっているんですか、店を開けているのに」と言って喧嘩しても意味がないのです。塾というところもそんなもので、それほど大事なところではないのです。教育を買うために行っているのですから、そこで問題は起きません。でも本当の先生というのは、大変な仕事です。この間も塾の先生に聞いたのですが、「学校で教えることは大変苦しい。でも塾で教えることはものすごくラクです。なぜかというと、来る人々は、勉強しなくちゃいけないと決まっている。だから、ただ教えて帰せばいいだけだからね。性格がどうかとか、どんな病気かとか、関係ない。服や髪型も関係ないのだから」と。高校や中学なら、子供たちは、どうすれば勉強しないでサボることができるかとそればっかり考えている。先生も責任があるから、どうすればこの子達が勉強するかということを考えなければいけない。それが先生の大変な仕事なんです。

 両親も同じです。子供は行儀よくご飯を食べたくない。たとえば小さな子はお箸は使えない。だから手で握って食べたいのです。左手でも右手でも食べて、手が汚れているにも関わらず何かにさわる。小さいから何もうまくできない。子供の立場から考えると、手で食べるのはこんなに簡単なのに、なんで親が箸に変えなさいと言うのか、めんどうくさいなあ、なんで食べながら走ってはいけないの、となる。子供は、おもちゃや人形があるなら、ご飯を食べながらそれで遊びたくなっちゃうでしょう。ご飯を食べているときも、他のものを見たらすぐにそこに行っちゃう。 そこで親が、先生として考えなくてはいけないのです。ただ怒って「だめですよ」と言っても、何でダメなのか子供にはわからないのです。なぜ遊んではいけないのか。先生として、どういうふうに言えばこの子が理解してくれるかと、そこを考えると立派な親になれます。ともかく、両親に一番最初に知ってほしいことは、自分たちがプッバーチャリア、最初の先生であるということです。

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;舟橋左斗子)

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