根本仏教講義
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21.損得勘定の智慧
(2)人生はモノの流れの交差点
A・スマナサーラ長老

 先月は、私たちの日々の生活は「損・得」「出る・入る」「与える・得る」という関係で成り立っていることをお話し致しました。損得勘定を無視して、いい加減に生きている人は「損」ばかりの苦しい人生を送ることになるのです。では、損得を勘定する人の場合はどうでしょうか?

(前号から続きます)
損得を勘定する人は「得」をする
 自分の損得を勘定する人は、相手の損得も勘定することができます。
ですからその人は、相手の気持ちが理解できる、自我を張らない善い人間になります。それから、財・知・人の三つの分野で得をするのです。財というのは財産や金銭、物のこと。知とは知識のこと。人とは人間関係のことです。損得を勘定する人は「どうすれば役に立つか」とか、「自分や皆にとって何が得か」ということを常に考えて行動しますから、その生き方は有効的友好的なものになり、他人にも好かれ、人気者になります。他人の甘言に騙されて悔しい思いをすることもありません。

 世の中には「悪い行為をすれば損をするし、善い行為をすれば得をする」という因果の法則があります。損得を勘定する人は、この法則をよく理解して、人を助けたり親切にしたりなど、常に善い行為を実践しようと努めます。結果として、その人の人生は人格が向上する方向へと赴き「得」に溢れる人生になるのです。

損得を表すさまざまな言葉
 さて次に、言葉の面から損得について考えてみましょう。
日常生活の中では「損・得」「出る・入る」を言い表すために多くの言葉が使われています。たとえば「出る」という言葉を表現するのに日本語にはさまざまな言葉があります。「寄付する」ことも「出る」という意味なら「攻撃する」ことも「出る」という意味です。しかし同じ「出る」ということを表していても意味が全く異なるのです。「寄付する」には善い評価が含まれますが「攻撃する」には悪い評価が含まれています。このように言葉には人の感情や評価が含まれているのです。他にどのような単語があるのかいくつか挙げてみましょう。

出て行くもの (output)

入って来るもの (input)

 ここに挙げた語はほんの一例です。私たちは日常生活の中で常に「出る・入る」の生き方をしていますから、他にもたくさんの言葉があります。それは私たちが感情で評価して区別している分だけあるのです。

人生は流れの交差点
 これから説明するポイントは少々難しいかもしれません。法則についての話しです。
「生きる」ということは、モノを「与えて得る」という交換の連続なのです。私たちはこの世に生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、入る(input)と出る(output)の流れの中で生きています。外からモノを入れて自分の内から何かを出す。酸素を入れて二酸化炭素を出す、ご飯を食べて栄養を摂取し、体力などで出す、この流れの連続です。一部が入り一部が出る、この交差点に私たちは「自分」と名付けているのです。ですから「自分」とは、何の実体もない、何の存在価値もない、ただモノが出入りするだけの一時的な「交差点」にすぎないのです。

 それなのに私たちは「自分がいる、私は偉い」と勘違いしています。ちょっと高価なモノを与えると「私は偉い、他の人とは違う」と自慢する気持ちが生まれてくるでしょう。たとえば頭の中でいろいろ想像を巡らせて小説を執筆し、それがベストセラーになって有名な賞を受賞したとします。そのこと自体には何の問題もありません。問題なのは「私は○○賞を受賞した立派な人間だ。偉い人だ」と、とんでもない妄想を働かせることなのです。仏教から見れば、その作家はあちらこちらから情報を掻き集め、それに少々手を加えて、新作と称して外に出しただけなのです。作家だけでなく、芸術家も、科学者も、政治家も、どんな人も、このように「入れる・出す」の機能しかやっていません。この機能が「生きる」ということなのです。

 これはちょうど「物々交換をする場所」のようなものです。昔の人たちは木の下や広場、道路の脇などで、各々が所有するモノを持ち寄って、物々交換をして生活を営んでいました。その場所は、単に「モノを交換する場所」であって、特別に「立派な場所」ではなかったのです。「私」というものも、いろいろなモノが行き来し、出入りする場所にすぎません。もし高価なモノを持っているなら「あちらに行けば良いモノが手に入る」と人々の間でちょっと評判が良くなるぐらいのことで、その場所自体には何の価値もないのです。

 このように「私」または「存在」というものは、さまざまなモノが行き来する交差点であって、そこに実体はありません。ですから「得した」といって舞い上がることもありませんし「損した」といって落ち込む必要もないのです。しかし私たちはいつでも損得に惑わされて苦しんでいます。でも考えてみてください。「得した」といって何に喜ぶのでしょうか? あるいは「損した」といって何に落ち込むのでしょうか? 自分というものは単なる交差点にすぎないのですから、損得に左右されて一喜一憂し、心をかき乱すべきではないのです。

 たとえば、ある物々交換の場所に、Aさんは着物を、Bさんは大根を持ってきたとします。二人は互いに自分の持っているモノを交換しました。後になってAさんは「私の大事な着物を大根なんかと交換して損した」と後悔するかもしれません。確かに着物の方が大根よりも高価でしょう。でも悔しがる必要はないのです。なぜなら自分というものは単なる交差点にすぎないのですから。着物が出て行き大根が入って来たといっても、交差点にとっては損も得も関係ないのです。何度も言いますが「私」というものは物々交換の場所なのです。この因果法則の真理を理解できれば、私たち穏やかで気楽に生きることができるでしょう。

しかし損得は無視できない
 これまで、自分というものは単なる交差点だから何が出入りしても冷静に落ち着いていましょうという話しをしてきましたが、これを実践できるのは法則を理解した賢者のみです。実際のところ私たちは無知ですから、そのように落ち着いていることはできません。では、どうすれば良いのでしょうか?

知者は正しく損得勘定をする
 「知者」というのは私たち、つまり普通の人間のことです。私たちは先ず理性を育て、ものごとの損得を正しく勘定することを学ばなければなりません。損得というと私たちはすぐに金銭や物品のことを思い浮かべますが、それだけでは足りません。知識、情報、技術、人間関係、道徳、人格などいろいろあります。あらゆる損得を考慮して、勘定しなければならないのです。たとえば情報を得るときには、何でも鵜呑みにするのではなく、「これは良い情報か、悪い情報か」「役に立つか、役に立たないか」と計算してみるのです。人と付き合うときも「この人は道徳的な人か、そうではないか」「この人と付き合うと損するか、得するか」というように、日々の生活の一つ一つの損得を理性的に勘定することが大切なのです。これができれば「損」をして落ち込んだり苦しんだりすることはありません。

 それから「得」をしたいからといって、他人の財産を盗んだり、奪ったり、騙し取ったりと、不正的な手段を使ってはいけません。他人に迷惑をかければ必ず自分が損をします。自分の感情をコントロールして、他人にも自分にも損害を与えないように気を付けなければならないのです。

 また、自分の知らないことは、真理を知っている賢者に聞いてアドバイスを受けることも大切です。
 このように理性を持って損得を勘定するなら、損の無い有意義な人生を送ることができるでしょう。
 (次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

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