根本仏教講義
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22.【新連載】 智慧ある人は愉しんで生きる
(1)自ら実践し体得する
A・スマナサーラ長老

 最初に、仏教を学ぶうえで重要なことを一つ説明しておきたいと思います。仏教の概念を知識として勉強するのは簡単ですが、それだけで真の幸福は得られません。たとえ膨大な量の経典を読み尽くし、暗記したとしても、なんの意味もないのです。そこで仏教を単なる理論や理屈、思想として受けとるべきではありません。身をもって実践し、理解し、性格を改善して苦の問題を解決しなければならないのです。お釈迦さまはこのように説かれました。「少しの知識でも、それを実践しなさい。実践する人こそ真の知識人です」と。教えを実践して真理を体験、体得すれば、絶大な幸福が得られるのです。

脳は「有る」ことのみを認識する

 私たちは「有る・無い」という二つの極端な見方で、ものごとを捉えています。というより脳は、そのようにしか理解できない構造になっているのです。

 「ものが有る」という見方については、皆さん簡単におわかりになると思います。本がある、花がある、私がいる、人がいるなど、この世に存在するすべてのものに対して、私たちは何の疑いもなく「有る」と思っています。ではこの「有る」という認識はいかにして生じているのでしょうか。

 これは私たちの感覚器官である「眼・耳・鼻・舌・身」に、外界の情報「色・声・香・味・触」が触れることから生じているのです。外界の情報が感覚器官に触れると、脳が機能して「有る」と知ります。情報が触れなければ、脳は機能しませんから「無い」となるのです。具体的に言いますと、耳に音が触れると「聞こえた」という認識が生まれますが、触れなければ何も聞こえません。肌に何かが触れると「触れた」と知りますが、触れなければ何も知りません。公園で花を見ているとしましょう。このとき、眼と花の色形が触れて「見えた」と認識します。そして「花が有る」と知ります。そこに猫が走ってきました。花に向いていた眼は、猫に移動します。そして眼と猫の色形が触れて「猫がいる」と知るのです。このとき、さっきの花に対する認識は消えていますが、脳は目の前の猫に囚われているため、そのことに気づきません。そこに、大きな物音が聞こえました。音が耳に触れて「音」と認識します。このときも、さっきの猫や花に対する認識は消えていますが、脳はそのことに気づかず、いま聞こえている音を認識しているのです。このように、脳が刺激されるのは情報が感覚器官に触れたとき、つまり「有る」という瞬間だけなのです。そしてこの「有る」という瞬間だけを見て、私たちは「ものが有る、存在する」と固定的、断定的に決めつけているのです。

 では次の図を見てください。何が見えるでしょうか。
 
   ●●●●●●●●●●●●
 
 たぶん、黒い円が連続してあるとか一列に並んでいる、などと答えられると思います。でもよく見てください。円と円のあいだに隙間があるでしょう。空間があるのです。しかし脳は空間を無視して、黒い円だけを認識しようとします。脳は真っ先に「有る」の部分を見よう、知ろうとするのです。先ほどの例でも、脳が知っているのは、花が有る、猫がいる、音が有る、などのように「有る」の瞬間だけなのです。「無い」という瞬間には気づきませんし、知り得ないのです。

「無い」は推測

 次に、もう一つの見方「無い」について検討してみましょう。もし「ふりこ」がありましたら用意してください。ふりこの左側と右側に両手を置き、眼を閉じてください。ふりこに力を加えると、ふりこは左のほうに移動して左手にパンとぶつかります。このとき脳は「触れた」と知ります。次にふりこは左手から離れ、右のほうに移動して右手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。また離れ、左のほうに移動して、左手にパンとぶつかります。「触れた」と知ります。脳は、ふりこが手に触れた瞬間のことしか知りません。しかし、ふりこが左手に触れる、離れる、右手に触れる、離れる、左手に触れる、離れる、と繰り返しているうちに「次は右手に触れるだろう」と推測するようになるのです。そして「有るだけではなく無いという瞬間があるのではないか」と考えつくのです。ただ、この「無い」という認識は、経験ではなく、あくまでも推測です。

 もう一つ例を挙げましょう。腕時計を見てください。皆さんは何も疑わずに、腕時計が有ると思っているでしょう。ではそれを、長針、短針、文字盤、ベルト、電池など、ばらばらに分解してみてください。腕時計はどうなるでしょうか。無くなるのです。長針だけをとって「これは腕時計です」とは言えません。短針も、文字盤も、ベルトも、電池も、単独では腕時計だとは言えません。つまり分解すると腕時計は無くなってしまうのです。とすると、腕時計は初めから無かったということではないでしょうか。このように、どんなものでも分解することができます。そして分解すればするほど、いまある状態が無くなってしまうのです。

 お釈迦さまが生きていた時代のインドには、このような複雑なことを思惟し、考察していた哲学者や思想家、宗教家たちがいました。彼らは「すべてのものは無の状態まで分解できる。存在するのは無だけだ。無こそが真理である」と考えて、その概念を強調しました。

有・無の超越

 そこでお釈迦さまはこう考えました。人間は、有・無という両極端でしか、ものごとを捉えられない。真実は何であろうかと。そして「超越」という立場を発見されたのです。これは因縁の教えです。

 先の腕時計を例にとりますと、腕時計は、必要な部品を、ある一定の法則で組み立てることによって成り立っています。それぞれの部品を、でたらめに接着剤でくっつけるだけでは、腕時計としての機能は果たしません。法則があるのです。長針と短針は文字盤の上に置かなければなりません。その上に透明のカバーを置き、両側にベルトをつけ、見えないところに電池を入れるというふうに。このように一定の法則に従って組み立てると、腕時計になるのです。それから、自然のものは常に法則に適っています。花の種を蒔くとどうなるでしょうか。水や栄養素など必要な要素を充分に与えているなら、やがて芽がでて、葉がでて、花が咲くでしょう。この順番は変えられません。芽がでていないのに花が咲くということは絶対にあり得ないのです。

 お釈迦さまは、この「法則」を発見されました。自然も、人間の思考プロセスも、すべてのものは丁寧な順番で組み立てられている。ものが「有る、無い」と断定的に見るのはいい加減だ。真実は、その場その場でさまざまな情報が組み合わさって成立している、と。ですから花を見て「花が有る」と実体化して見るのは間違っています。花は刻々と変化しつづけているのです。咲いている花はだんだん萎み、枯れてゆきます。同様に「私」というものも瞬間々々変化しています。「私が存在する」とも「私が存在しない」とも言えません。これが因果法則であり、仏教の真理なのです。

極端な見方から苦が生じる

 これまでお話ししてきましたように、私たちは、「有る・無い」という極端な見方でものごとを捉えています。そしてこの見方から貪瞋痴が起こり、悩み苦しみが生まれているのです。たとえば「Aさんがいる、彼女は美人だ」と考えると、そこからさまざまな苦しみが生まれてきます。話しがしたい、どうすれば話せるだろうか、どうすればつきあってもらえるだろうか、とあれこれ考えて悩むことになります。そこで思いきって声をかけて仲良くなれたとします。苦しみは消えるでしょうか。消えません。今度は嫌われないように気を遣ったり、歓心を買うためにいろいろ努力しなければなりません。別の苦しみが生まれてくるのです。また、仕事が忙しくて会う時間がなかったり、転勤で遠くに引っ越してしまうと、今度は「Aさんがいない」ということで、さらに苦しむのです。このように「いる、いない」と固定的に見ることから、大変な苦しみが生まれてくるのです。

 それから「自分には財産が有る」と金持ち気分で威張っている人もいるでしょう。しかしそういう人たちも、多くの苦しみを抱えているものです。お金を盗まれないかと絶えず警戒し、人目のつかないところに隠したり、玄関に防犯カメラを取り付けたり。また、金持ちのなかには所得を偽ったり過少に申告して、金持ちになっている人も少なくありません。しかしそういう人たちは、公で堂々と買いものをすることができません。家や車など大きなものを購入すれば、申告していないことがすぐにばれてしまいますから。ですから欲しいものを買わずにお金を隠しておくのです。それで、ある日、家に泥棒が入ってお金を盗まれたとしましょう。今度は「お金が無い」ということで、ものすごく苦しむのです。もっと苦しいのは、警察に通報しても隠しておいたお金のことは言えないことです。別のもの、たとえば宝石をいくつか盗まれたとか財布を盗まれた、ということぐらいしか言えません。それに、たとえ泥棒が捕まったとしても、隠していたお金を返してくれとは言えないでしょう。それでさらに苦しむのです。

(次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

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