根本仏教講義
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22.智慧ある人は愉しんで生きる
(3)無常
A・スマナサーラ長老

事実を知ろうとしない無知

 私たちは「相対論」ということ、つまり「世の中は有でも無でもなく因縁に依って一時的に成り立っている」という真理を、なかなか理解することができません。理解できないということは仕方ありませんが、理解しようとする努力もしないのです。先日のことですが、経営状態が思わしくなく借金を抱えて困っているという、ある会社の方々に話しをする機会がありました。私が何を話したかといいますと「どんなに借金があっても悩んだり落ち込んだりすべきではありません。いまやるべき仕事をしっかりやってください。精一杯やって、それで会社が倒産して、ホームレスになったとしても、それはどうしようもないことではありませんか。ホームレスになったら元気に明るく、その場その場で生活すればいいのです。肝心なのは、どんな状況であれ、瞬間々々明るく堂々と生きることです。食べ物をゴミ箱から拾って食べるようになっても、私はなんて惨めなんだと思うと苦しいでしょう。そうではなく、今日はいいもの見つけた、ついているぞ、と思えば人生は愉しいのです。このような思考をもつ人に苦しみはありません」と。

 講演が終わったあと、一人の男性が私にこう言いました。「あなたの話しはわかります。しかし厳しすぎます。借金を抱えている私たちには、もう少し心が安らぐような話しをしてくれたほうがよかったのではないか」と。この言葉からわかるのは、この男性が聞きたかったのは、祈祷すれば商売が繁盛するとか、苦労しなくてもお金が儲かる方法とか、そういうことなのです。しかしそういう類の話しは全部うそです。

 このように、私たちは事実を聞きたがりません。でも、信じれば天国に行けるとか、祈れば神様が望みを叶えてくれるとか、そういうごまかしを言うと、みんな喜んで、その通りだと理解するのです。このような態度では、当然、事実を理解することなどできません。ということは、真の愉しみや幸福も得られないのです。

愚か者が行う改革は危険

 それから私たちは、事実を知ろうとしないだけでなく、他を自分の思いどおりに変えようとしています。子供を変えよう、夫や妻を変えよう、部下を変えよう、周りの人を変えようと頑張っています。でも、暴れまわっている子供をおとなしくさせるのは簡単でしょうか。上司が部下に、営業成績をあげろと闇雲に命令しても、効果があるのでしょうか。子供を変えようとすると子供は「うるさい」と言ってさらに反抗するでしょうし、部下にプレッシャーをかけても、余計に焦ったり不安になってうまくいかなくなるものです。結局、相手を強引に変えようとすると、相手はものすごく苦しむのです。そしてそこから対立や争い、ひいては戦争までもが生じるのです。因果法則を知っている人は、そういう無理強いはしません。

 それから人間は自然も変えようとしています。山林を伐採して道路をつくったり、トンネルを掘ったり、石油を掘ったり、海や沼を埋め立てて陸地をつくったりと、次々に自然を変えるのです。それで私たちは幸福になったでしょうか? 科学技術が進歩して、生活は確かに便利になりました。でも、心の安らぎや安心感だけは無いのです。私たちが毎日食べている米や野菜は、本来人間の体にいいものですが、いまは農業技術が発達したために、田畑に多量の農薬や化学肥料を撒いていますから、いいものであるはずの農作物に毒がたっぷりかかっています。ですから安心して食べられない状態になっているのです。それで最近では、無農薬の野菜を買う人も多いようですが、それも本当に無農薬かどうかはちょっとわかりません。なかには「無農薬というラベルを貼れば儲かる」と考えて商売している悪い人たちもいますから、あまり信頼できないのです。

 ですから無知な人たちが、農業を改革しよう、経済を成長させよう、科学を発展させようとすると、世の中は混乱して危険な状態に陥ります。大量化学兵器は誰がつくったのですか。無知な科学者たちです。そのために大勢の罪の無い人たちが犠牲になり苦しむ羽目になっているのです。

 しかし、因果法則を知っている智慧のある人が世界の発展に携わるなら、すばらしい世界になることは間違いありません。なぜなら智慧のある人は常に皆の幸福と平和を考えて行動するからです。そこで、できれば子供たちは、まず仏教を学んで智慧を育ててから学校で勉強したほうがいいと思います。そうすれば社会の役に立つ立派な人間に育つでしょう。

無常・苦・無我

 これまで相対論について話してきましたが、相対論がむずかしくて理解できないという方は、次の真理を理解できるように頑張ってください。

 ●一切は無常である
 ●一切は苦である
 ●一切は無我である

という三つの真理です。しかしこの三つを全部理解する必要はありません。このなかの一つだけを理解すればよいのです。そこで無常を理解するか、苦を理解するか、無我を理解するかは、各人の性格で決まります。一般的に誰でも理解しやすいのは「無常」です。それから「苦」は、観察力が鋭い人に適しています。苦を観察することは簡単ではありません。これは単に苦しいという意味ではなく、もっと深い意味の「虚しい」という意味なのです。鋭い観察力で生命を観察するなら「苦」というポイントがよいでしょう。「無我」は、ものごとを深く考える思想家や哲学者に適しています。ヨーロッパに有名な哲学者がいましたが、あのぐらいの能力があれば「無我」にチャレンジしたほうがいいと思います。

 ここでは、誰にでも理解しやすい「無常」についてお話しすることにいたしましょう。

「生きること=無常」の法則

 私たちはたいてい「無常」ということを認めたがらずに、世の中は常であってほしいと望んでいます。でも、常ということが本当に幸福なのでしょうか。赤ちゃんはすごく可愛いでしょう。なぜかというと、すぐに変化するからです。大声で泣いていても、ちょっと抱っこをして背中を撫でてあげただけで、すぐにニコニコと笑います。だからやりがいがあるのです。でも、もし何をしても一向に泣きやまなければ、イライラしてうんざりするでしょう。また、子供が風邪をひいて高熱を出したとします。病院で注射をしても薬を飲んでも全然熱が下がらなければ、母親は心配でたまりません。でも、一日ゆっくり寝ただけで熱が下がったら、ほっとします。ですから無常のほうが愉しいのではないでしょうか。

 それから、私たちが愉しんでいる音楽も無常だからこそ成り立っているのです。たとえばピアノの鍵盤の、ある一つの音だけをポンポンポンポンポン……と一、二時間ぐらいずっと指で押しつづけてみてください。どうでしょうか。たまらなくイライラしてくると思います。逆に、十本の指をめまぐるしい速さで動かしてピアノを演奏すると、聴いている人は感動するのです。なぜでしょうか。無常だからです。つまり、音が急速にテンポよく変化しているからです。このように、音楽も無常だからこそ成り立っているのです。

 私たち生命も、無常だからこそ生きているのです。生きるということは、酸素を吸う、二酸化炭素を吐く、お腹がすく、ご飯を食べる、眠くなる、寝る、目が覚める、顔を洗う、喉が渇く、水を飲む、仕事をする、人と喋る、疲れる、休む、またお腹がすく、ご飯を食べる……などと常に変化していることをいうのです。酸素を取り入れ二酸化炭素を排出しています。また、目には見えませんが、心臓は常に動きつづけていますし、血液も止まることなく体内を流れつづけています。一瞬たりとも停止しません。無常でないと生命は維持できないのです。このように「生きること=無常」であり、これが存在の法則なのです。 
 (次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

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