根本仏教講義
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME根本仏教講義→22.智慧ある人は愉しんで生きる (6)最高の愉しみ
22.智慧ある人は愉しんで生きる
(6)最高の愉しみ (最終回)
A・スマナサーラ長老

 先月は、悟りに至るまでどのように生きればよいかという応急策の一つ目「道徳の方程式」についてお話いたしました。

(前号から続きます)
 応急策の二つ目は「慈悲」です。道徳の方程式が複雑で難しいと思われる方は慈悲を実践してください。慈悲を実践することによって、道徳の方程式もきっちり完成することができるのです。慈悲の実践とは、自分を含むすべての生命に対して「皆が幸福でありますように」と心を込めて念じることです。時間や場所を決めずに、いつでもどこでも心のなかで念じてください。慈悲の心さえあれば、私たちは何の問題も起こさずに愉しく生きることができるのです。

 しかし安心してはいけません。道徳の方程式も慈悲の実践も、あくまでも応急策であって、苦しみを解決する完全な方策ではないのです。これらが壊れるとトラブルを起こす危険もありますから、最終的には智慧の開発を目指さなければならないのです。つまり因果法則を理解して、心の改革を起こすことです。道徳も慈悲もそこまでの話です。

生命を創造するのは誰?

Kimsu janeti purisam
kimsu tassa vidhâvati
kimsu samsâramâpâdi
kismâ na parimuccati.

「誰が生命を創造するのですか。誰が生命を生かしているのですか。生き続ける生命に避けられないものは何ですか」という質問に、お釈迦さまは次のように答えました。

Tanhâ janeti purisam
cittam assa vidhâvati
satto samsâram âpâdi
dukkhâ na parimuccati.
(Sanyutta Nikâya, 1.37)

「渇愛が生命を創造します。
心が生命を生かしています。
生き続ける生命は、苦しみから逃れることができません」

 渇愛とは「生き続けたい」という欲望のことです。生命を創造しているのは神様や外部の権威者ではなく、ほかでもない自分自身の渇愛なのです。そして私たちは心によって生かされているのです。渇愛がある限りは、苦しみから逃れることができません。

最勝の生き方

Kimsûdha vittam purisassa settham,
kimsu sucinno sukhamâvahati;
kimsu have sâdutaram rasânam,
katham jîvim jîvitamâhu setthan ti.

 人間にとって最高の財産は何ですか。 
 何を実践すれば幸福になりますか。
 最高の味(愉しみ)は何ですか。
 どのような生き方が最勝ですか。

Saddhîdha vittam purisassa settham,
dhammo sucinno sukhamâvahati;
saccam have sâdutaram rasânam,
paññâjîvim jîvitamâhu setthan ti.
(Sanyutta Nikâya I.42)

 真理に対する確信が最高の財産です。
 真理を実践すれば幸福になります。
 真実(真理)が最高の味(愉しみ)です。
 智慧の生き方が最勝の生き方です。

 「真理」とは無常のことです。私たちは確信したほうが良いのです。「無常しかない、ほかの教えは当てにならない」と。真理を確信するほどの財産はほかにないのです。「真理を実践する」とは気づきを実践することであり、自分の心身に生じてくる現象に瞬間瞬間気づくことです。そこで気づきが難しいと思われる方は、道徳か慈悲の実践から始めてください。そうすれば幸福になるでしょう。そして「最高の愉しみ」とは真理を知ることであり、「最勝の生き方」とは智慧の生き方です。智慧の生き方ほど勝れた生き方はほかにありません。

愉しいのは自分です

 愉しみは、お金や家族、娯楽などの外部の事物にあるのではありません。愉しみは人や物に対する自分の心のアプローチなのです。たとえばここに有名な画家の絵が一枚あるとしましょう。その絵を見て、すべての人が「素晴らしい」と感じるかというと、そうではありません。感動して涙を流す人もいれば、まったく興味を示さない人もいます。でも絵自体は何もしていません。ただそこに置いてあるだけです。このように心が愉しくなったり退屈だと感じるのは、個々のアプローチによるのです。

 ですから、たとえどんなに多くのお金を持っていても、マイホームを持っていても、アプローチが悪ければ幸福にはなれません。お金もマイホームも子供も家族も会社も、外部のものは幸福を運んでくれないのです。すべては自分のアプローチ次第です。アプローチが悪ければ何を得ても不幸になるのです。たとえば裕福な家庭で育った子供のなかには、家出をしたり非行に走る子供も結構います。お金の無い人から見れば、何不自由なく暮らしている子がどうしてあんなことをするのだろうかと不思議に思うかもしれません。でもそういう子供たちはとても不安なのです。親は愛情を注いでくれないし、お金でものごとを解決しようとするし、それが子供にとってはすごく嫌なのです。それで麻薬に手をだしたり万引きをやって、親を困らせようとするのです。ですから物質的に豊かというだけでは幸福になれません。アプローチが悪ければ不幸な結果に終わるのです。

 逆にアプローチが良ければ、物質的に豊かでなくても幸福になることができます。実際、お金も家族も仕事もないのに、不平も不満なく、愉しく生活しているホームレスもいます。そういう人たちは、日々何か少し食べることができれば充分だし、病気になっても、たとえ死んでしまっても、それはそれでいいのではないかと考えて、他人に迷惑をかけずに穏やかな心で生きているのです。

 アプローチを変えれば人生は幸福になるのです。お金があれば必ず幸福になるというのは嘘です。幸福になる人もいるし、ならない人もいるのです。

心のアプローチを制御する

Na te kâmâ yâni citrâni loke,
Sankappa râgo purisassa kâmo;
Titthanti citrâni tatheva loke,
Athettha dhîrâ vinayanti chandam.
 (Sanyutta Nikâya I.22)

 世の中の様々な美しいものは欲ではありません。
 人の考え方が欲なのです。
 様々なものは世にそのようにあるだけであり、
 智慧のある人は、心の欲を捨てるのです。

 世の中には美しいものや楽しいものがたくさんあります。デパートに行けば衣服やアクセサリー、家具、おもちゃ、食品などさまざまな物が売っています。でもこれらの物は欲ではありません。物を見たときに自分の心に湧いてくる「楽しい、欲しい」という感情が欲なのです。欲は物にあるのではなく、自分の心のアプローチなのです。同じ映画を見ても、面白いという人もいれば退屈だという人もいるでしょう。心のアプローチが欲なのです。外にある物は善いことも悪いことも何もしていません。ただそのままそこにあるだけなのです。動物園でパンダを見ていると、たいていの人は「かわいい」と感じるでしょう。でもパンダはただゴロゴロしたり餌を食べているだけで、パンダが人間に向かって「私を見て!」と誘惑しているわけではありません。でもパンダを見たとたん私たちの心が変化して「かわいい」という欲が湧いてくるのです。デパートで売っている衣服やアクセサリーも「私を買って」とお客さんを誘惑しているわけではありません。ただそこに置いてあるだけなのです。でもそれを見た人の心に「きれいだなあ、これ欲しい」という欲が生まれてくるのです。これが問題であり、悩みや苦しみの原因なのです。

 そこで賢者はどうするかといいますと、自分の心を観察して、物に対するアプローチをコントロールするのです。これが仏教でいう解脱の世界、つまり自由の世界です。物に依存することなく、振り回されることもなく、心にある「欲しい」というアプローチを消すこと、これが悟りの境地です。

 (完)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

次の講義へ→
HOME根本仏教講義→22.智慧ある人は愉しんで生きる (6)最高の愉しみ
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.