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23.刺激論 【新連載】
(2)生ごみより臭い妄想
A・スマナサーラ長老

  人間は「眼耳鼻舌身意」の六つの感覚器官からさまざまな刺激を受け取り、その刺激の網に引っ掛かって苦しんでいます。しかし、この状況をありのままに観察し、網から脱出して自由になろうとする人はほとんどいないということを先月お話いたしました。

宝物か、生ごみか?

 六つの感覚器官のなかで最も強烈な刺激の網は「意」です。私たちは自分の考えや思考、意見に多大な価値を入れ、固くしがみついています。「私の考えはこうだ」「これが私の見解だ」「私の意見は正しい」「あなたの意見は間違っている」などと。でも結論を申しますと、自分の考えというものは単なる臭い生ごみで、何の役にも立たないものなのです。思考も意見も見解も概念も知識も、どうということはありません。しかし私たちは、これらを生ごみだと思うどころか、逆に、宝物のように大事に抱え込んでいます。そしてそこから争いや対立など、あらゆる苦しみが生じているのです。

 たとえばお姑さんが「うちの嫁はだらしなくて性格が悪い」と思っているとしましょう。しかしそれはお姑さんの妄想であって事実ではありません。旦那さんは「良い妻だ」と思っているかもしれませんし、子供たちは「いいお母さん」と思っているかもしれません。「嫁の性格が悪い」というのは、お姑さんの主観であり勝手な妄想なのです。そしてその妄想が、嫁姑の関係をぎくしゃくさせ、家庭全体の明るい雰囲気を壊しているのです。

 宗教間でも対立が絶えません。同じ宗教のなかでも派閥争いがあり、互いに厳しく睨み合っています。なぜでしょうか? それぞれが「自分の教えこそが正しい、他の教えは間違っている」と自分の教えを固く信奉しているからです。そのため自分と異なる信仰をもつ人と話しをすると、意見の食い違いから、争いや対立が起こるのです。たとえばプロセスタントの信者さんが、カトリックの神父さんに「プロセスタントの教えこそが正しい」と言ったなら、即座に追い出されるでしょう。「何を言うのか、あれは悪魔の教えだ」と。普段は一般の人々に向かって「他人を憎んではいけません、喧嘩してはいけません」と教えている神父さんでも、実際には、自分の信仰や見解、概念の網に捕らえられて、ひどく苦しんでいるのです。

 そこでこの苦しみを解決するためには「自分の考えは生ごみである」ということを理解して、自分の思考に対する執着を捨てることです。そうすることで、対立や争いのない、平和で安穏な世界が現れるのです。

なぜ、お化けが出るのか?

 刺激の世界のことを仏教専門用語では、カーマチャンダ(kâmachanda)と言います。カーマ(kâma)は「欲」という意味ですが、「欲の対象」という意味もあります。具体的に言いますと、眼に触れる色や形、耳に触れる音、鼻に触れる香り、舌に触れる味、体に触れる感触、頭のなかで回転する概念のことで、色声香味触法のことです。チャンダ(chanda)は「好む、気にいる」という意味です。

 そこでカーマチャンダとは「色声香味触法が好きで気に入っている」という意味になります。私たちは色声香味触法が好きで、常に何らかの刺激を追い求めています。音楽を聴いたり、テレビを見たり、本を読んだり、ご飯を食べたり、仕事をしたり、運動したり??。 そこでこれらの感覚の対象が無くなると、すごく寂しくなるのです。たとえば見えるものがいっぱいあるときは楽しいのですが、それが少なくなると寂しくなり、何も見えなくなると恐怖を感じるのです。真っ暗闇は怖くありませんか? お化けはなぜ夜に出るのでしょう? なぜ昼に出てこないのでしょうか? あれは暗闇から出てくる人間の恐怖感なのです。夜は暗い、暗いところでは何も見えない、見えないから怖い、だからお化けが出る、と思っているのです。でも本当はお化けが怖いのではなく、眼から刺激が得られなくなったから怖くなったのです。感覚の対象が無くなると、私たちはものすごく恐怖を覚えるのです。

恐怖の正体

 これまで何人もの人に「わたしは恐怖感が強いのですが、どうすれば治りますか」という質問を受けました。上司が怖い、姑が怖い、学校に行くのが怖い、職場が怖い、あれも怖い、これも怖い、どうすればいいのでしょうかと。そこで私はまず「なぜ怖いのですか、何が怖いのですか」と聞き返して、本人にその問題を考えさせるようにします。これで治る場合もありますが、だいたいは、「なぜ怖いのか」分からない人がほとんどです。

 なぜ怖いのか、その答えを出しましょう。前号の冒頭でもお話しましたが、刺激を受けるということは、生きるということです。とすると、刺激が無いということは何を意味するでしょうか? 生きられないということです。生きられないということはどういうことですか? 死ぬということです。答えはこれです。私たちは死ぬのが怖いのです。暗闇が怖いといっても、その根底にあるのは、死ぬのが怖いという恐怖感です。お化けが怖いといっても、お化けに殺された人は一人もいません。熊や人間に殺された人は大勢いますが、お化けに殺された人は一人もいないのです。しかし私たちは熊や人間より、お化けが怖いと言うのです。これはまったくの屁理屈。

 本当のところ、私たちは刺激が無いこと、つまり死ぬのが怖いのです。楽しく賑やかにパーティーをしているところにお化けが出るとは誰も言わないでしょう。でも暗闇の殺風景な墓場にはお化けが出ると言うのです。刺激が無くなると、私たちは急に寂しくなって怖くなり、お化けが出ると妄想するのです。しかし実際には、眼耳鼻舌身から刺激が得られなくなったから怖くなったのであり、さらにその根本原因は「死ぬのが怖い」という死の恐怖なのです。心の一番底に沈んでいるのは「死にたくない」という恐怖です。これには解決法がありません。どんなに踏ん張っても、人は必ず死にますから。他の宗教では「死んでも大丈夫、永遠の天国があるから」と言っていますが、仏教は「生命は必ず死にます」と真実を告げます。嘘やごまかしは言いません。「みんな死にます」とはっきり言うのです。そして「死ぬのが怖いなら、闇雲に脅えているのではなく、死んでも大丈夫という生き方をしたらどうですか」と、正しい生き方を教えているのです。将来のことを妄想して脅えるのではなく「いつ死んでも大丈夫」という生き方をしてはいかがでしょうかと。

死の恐怖を乗り越える

 そこで、生きるのが怖いとか、自信がないと悩んでいる人は、「自分は本当は死を怖れている」ということを理解してほしいのです。人間は誰でも死にます。私たちは今ほんのちょっとの間、生きているにすぎません。生きれば生きるほど体が衰えますし、瞬間瞬間、死に近づいているのです。どんなに良い家族に恵まれていても、仕事で成功して万事うまくいっていても、それはせいぜい八十年か九十年ぐらいのこと。遅かれ早かれ、必ず死ぬのです。この事実を正しく観察することによって、私たちは恐怖や不安などの精神的な病気から解放されるのです。

 でも私たちは、死の観察はやりませんし、やりたがりません。死は不幸の象徴であり、不吉なものだと考えています。誰かが死んだとき「○○さんが死んだ」とは言わないでしょう。「他界しました」とか「天国に行きました」と言うのです。私たちは「死」という言葉さえ、口に出そうとしないのです。でも死の恐怖を乗り越えたければ、死を観察するしか方法がありません。

 そこで私たちは色声香味触法が好きで、瞬間瞬間何らかの刺激を求めています。「生きる」ということは「刺激を受ける」ということなのです。ご飯を食べることも、服を着ることも、趣味や娯楽を楽しむことも、芸術や文化、哲学や宗教をつくることも、すべては人間が刺激を得るためにやっていることなのです。

 しかし、どんなに刺激を得ても、私たちの心は満足しません。いつでも「何か足りない、もっと欲しい」という思いが心に残るのです。何かを得てもそれには満足できませんから、別の刺激を求めます。それにも満足できませんから、また別の刺激を求めます。このようにして私たちは限りなく刺激を求め続けるのです。これが「カーマチャンダ」という病気で、すべての生命は、この網に引っ掛かって苦しんでいるのです。

 そこで、超越した智慧の次元に足を踏み入れたい人は、カーマチャンダの網を破らなければなりません。この網を破ったとき初めて、完全なる自由の世界が現れてくるのです。

 (次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

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