根本仏教講義
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2.テーラワーダ仏教
(4)二つの偈文に学ぶ教え
A・スマナサーラ長老

 きょうは掲文にあるひとつのエピソードからお話しましょう。それは、マッタクンダリーという子供とそのお父さんの話です。

お釈迦さまの時代にもう病的にケチな大金持ちがいました。食事など毎日黒い色のご飯とすっぱい汁だけという粗食です。すっぱい汁というのは、いちばん簡単に手に入るある木の葉を入れて煮詰めるとすっぱくなり、それを固く炊いた黒いご飯のうえにかけて食べるだけという凄まじいほどの粗悪食でした。その人には一人の子供がいて、当時のインドでは男はみんなアクセサリーを身につける習慣があって、その子供も(キン)の首飾りをつけなければならないことになりましたが、業者に金の耳飾りを頼むと自分の家に財産があることが分かってしまうことを恐れて、ブリキかなにか金槌(かなづち)で打ちつけただけの耳飾りを作ったのです。それは何とも(ひど)いもので、その息子のことを人々は、「ただ打っただけの耳飾りの者(マッタクンダリー=マッタはただ単に金槌で打ったという意味で、クンダリーは耳飾りの意)」とあだ名で呼んだほど、不評を買ったものでした。

 その息子が栄養失調から病気になって、しかしお医者さんを呼ぶと家のなかの財産が分かってしまうということで、医者のところへ言って、「こういう症状だがあなただったらどんな薬を調合するか」と、聞いた。医者のほうもこの男のケチなことはよく知っているので適当な返事をして追い返してしまった。ところが、男のほうもいい加減に調合した薬を息子に与えたところ、結局薬は効かず息子は死んでしまったのです。

 お釈迦さまはこの息子が死ぬときを知って、「この子供は大変可哀相な子である。とても良い子なのに何も善いことをしたことがない。死ぬときにもしこの子供が、親などを憎んだり恨んだりすると地獄に生まれ変わることになる。何とか助けてあげなければいけない」と考え、その子供のところへ出掛けました。
ちょうど子供は死ぬ直前で、親は、「もう死ぬころだな」と、子供を表に出してしまった。子供が死んでも表に出しておけば、親戚の人々が来ても家のなかに入ることはしないだろう、そうすれば財産があることを知られずに済む、という考えからでした。子供は外に寝かされました。そのとき、壁に光が当たって子供が何だろうと振り向くとそこにお釈迦さまがいることに気がついたのです。お釈迦さまの光り輝く姿を見て、息子はものすごく喜んで心のなかを歓喜に溢れさせ、こう呟きました。「自分はいまだかつてこのような聖者を見ることはなかった」

 お釈迦さまは、「その歓びの心だけで十分です」と仰言って、立ち去りました。
その息子は、そうした清らかな喜びの心だけで、死ぬ瞬間天国に行くことが出来たのです。天国に生まれ変わるためには死ぬときの清らかな心の状態が必要なのです。その子は最後に親への怒りの心ではなく、すばらしい聖者を見ることが出来たと歓びの明るい心で死んだ。死ぬときにあったのはその歓びの心だったのです。ですから次も天国に生まれたそうです。

 一方、息子を喪った“ケチな”父親は、息子が死んでからというもの、急に悲しみがこみ上げてきて、自分が子供に何もしてあげられなかったことを悔やんでは、哀しみに暮れて毎日墓地に行って亡き息子のことを思って泣いてばかりいました。息子は、三十三天という帝釈天がいる二番目の天界に再生したのですが、いいことをしたわけでもない自分がどうしてこんなすばらしい天国に生まれ変わったのかはじめは分からなかった。しかし、死ぬ直前にお釈迦さまに会い、きれいな歓びの心で死んだので天国に生まれ変わったことを知らされて、父親にもそのことを教えてあげようと、地上に降りてきたのです。父はたしかに酷い人だが、このままでいると死んでから地獄に行ってしまう、そのことを知らせてあげようと思ったのです。

 自分の埋葬された墓地で父親が嘆き哀しんでいる横で、その子供もまた大きな声で泣きはじめると、父親は、ふとその子供を見て、何と亡くなった子供に似ていることだろうとふしぎにおもいましたが、息子が帰ってくるわけもないので、気を取り直して子供に、「いったい、何でそんなに泣くのか」と問いかけた。
「欲しいものがあるんですが、だれもくれない」と、子供はまた泣きじゃくります。父親は、自分は子供に何もしてやれなかった、見れば自分の子供によく似た子供だ、よし、息子にしてあげられなかった分、この子に何かしてあげようと思い、「何か欲しいのか言ってごらん、どんな高いものでもあげるから」
  「私は遊ぶ玉が欲しい」
「玉だったらいくらでもあげよう」
  「いいえ私の言う玉はそういう小さな玉ではなく、私はあの太陽と遊びたいのです」
「お前は馬鹿ではないか。太陽となんてとても遊べるわけがないではないか」と、父親は呆れてしまった。
 すると、子供は、 「じゃあ、おじさんは何で泣いているんですか」
「私はお前と同じくらいのひとり息子が亡くなったので、悲しくて泣いているんだ」
  「おじさんのほうが、ずっと馬鹿ではないですか。だって、僕は目に見える太陽が欲しいと泣いているのに、おじさんは目に見えない、帰ってもこないものに、帰ってきてくれ、帰ってきてくれと泣くのはあなたのほうがずっと馬鹿ではないか」と言いました。
 それを聞いた父親のほうは、たしかにこの子供の言うとおりだ、何と頭のいい子だろうと思いながらおもわず、「あなたはいったいだれですか?」と聞いてみた。
 すると、その子供は、「実は自分は亡くなったあなたの息子です。いまは三十三天の天国という素敵なところにいます」と答えました。父親は、「何だってあなたは天国に生まれ変わることが出来たのですか」
  「私はべつにいいことも、お布施だってしなかったけれど、死ぬときにお釈迦さまという聖者を見ただけでこういうことになりました。ですから、お父さんもお釈迦さまの所に行って法を聞いてください」と言ったのです。

 父親は、それ以後ケチをやめて、お釈迦さまのところに行きました。
その結果、人が変わったようになって、ついにはヨルドー果の聖者になったのです。
仏教というのは極めて明るい宗教ですから、当時のお坊さんもとにかく話を明るく分かりやすくしようとして、面白い物語に変えて、その中にいくつかの心理学的なポイントを人れておくものが多いのです。そのような観点からこのエピソードを見ると、これも立派な作品になっているということが言えます。ケチな人というのは当時のインドには結構多くいて、ケチを素材にした逸話は多く残されています。

 インドでは目のところに墨を塗りますが、暑いインドではこの墨を塗ると大変涼しくなって、欠かせない材料なのですが、この墨というのが大変高価なもので、裕福な人でもほんの少ししか使うことが出来ないとされています。ケチな人は、鳥の羽の先にその墨をほんの少しだけつけて、それで自分のまぶたに塗ります。一回にほんの少しだけですから、墨はなかなか減らないようですが、でも確実に少しずつ、少しずつ減りはじめ、ついにはなくなってしまいます。お金も、ほんの少しずつ、ほんの少しずつと思いながら使っていれば、やがてなくなってしまうのと同じ理屈です。白蟻が土を少しずつ持ってきては積み上げて、やがて強い蟻塚を完成させるように、お金もまた使わずに一円ずつでもいいから貯金すればやがてはたまるものだという謂われがインドにはあります。

インドにはこういうケチな人の発想が多く残されています。私たちから見れば、これは一種の病気ではないかと写るのですが、病的にケチの人というのがいるんですね。

 ものを人に上げないというのもまた病気の一つです。そういう人は施すという法則を実行しない違反者です。私たちは自分が貰ったものだからこれは自分だけのものだと思い込んでいますが、それは違うのです。それは預かっているものであって、自分だけのものではないのです。例えば、日本ではいい仕事をすればいい給料を貰えます。それは日本人がこれまで頑張ってきたからこういういいシステムが生まれたのですね。日本も昭和の始めまでは貧乏で物資の乏しい国だったのです。

戦争に負けどん底から立ち直ってきて今日の繁栄を築きました。それはだれでもない皆さんの先輩たちのおかげです。いまあなた方がいい給料を貰えるようになったのも、先輩たちの苦労のおかげです。私の国では皆さんの何倍もの仕事をしているように見えますが、給料は十分の一にも満たないのです。でもそれはその国の状態なのですから仕方がありません。皆さんのいまの幸福は先輩たちの努力のおかげなのだということを忘れてはいけません。

 ですからこの金は自分のものだ、自由に、自分勝手に使いますとやると、お金はあなたに縁のないものとなってしまう法則があるのです。いまのあなたが稼いだお金は長い長い年月のなかで多くの人々の苦労という背景があるのです。日本語の、「おかげさまで」という言葉は実にその点をふくんだ含蓄(がんちく)のある言葉だと思うのです。病気が治って退院するときも、「いかがですか?」と聞かれ、「おかげさまで」と答えるでしょう。皆さんのおかげでよくなりましたということですね。
 おかげさまでというのは、この世の自然法則を意味している生き方なのです。この自然は、草木が一本もなければ生き物は呼吸もできませんね。大地や水がなければ生きていけないでしょう。動物が生きていなければ、自然法則は崩れてしまいます。すべてが自然法則に逆らわずに生きているのです。人間だけが勝手にそれを壊し、自然法則に逆らっているのではないですか。必要なときに、必要な人に「おかげさまで」という言葉を使うのは自然法則であり、そう思わない人間は法則に逆らって生きていると言わなければなりません。

 人間が幸福になりたいと願うこころもまた自然の法則です。だれでも不幸になりたいという人はいません。動物であろうが何であろうが、心のある生命体はみんな幸福になろうとしています。そうであれば自然法則に従う人こそ自然に幸せになるのであり、それも自然法則なのです。自然法則を勝手に破る人は、苦労という法則に向かってしまうのです。自分が貰ったものでも自分のものですと思わずに、「これは皆さんのおかけだ、生きとし生けるもののおかげだ」という生き方こそ自然法則に逆らわないものなのです。こういうこころで生きていると、必要なときに何も嫌だとか損だなどという感じも持たずに人のために使うことが出来るし、そのような人は例え自分の全財産をあげても不思議に貧乏にはならないのです。自然法則によってその人は多くの人から支えられ、だれからも愛され、いつも幸福でいられるのです。

(スマナサーラ師講演録から構成しました)

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