根本仏教講義
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23.刺激論
(5)パパンチャのからくり
A・スマナサーラ長老

 前回は、人間の認識プロセスの「知る・sanjâna」という働きまでお話いたしました。六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)に、外部の情報(色声香味触法)が触れると、それぞれの器官に認識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が生じ、そこから感受(vedanâ)と知る(sanjânâ)という働きが生まれるのです。
(前号から続きます)

瞬間的に考える働き(Vitakka)

 知る(sanjâna)という働きの後には、ヴィタッカ(Vitakka)が生まれます。ヴィタッカは漢訳で「尋」、意味は「考える」です。じっくり考えるのではなく、瞬間的に考えることです。閉じていた眼をパッと開けると、眼に色形が入ります。もし目の前に花があるなら、その瞬間に「花」と分かるでしょう。これがヴィタッカです。瞬間的なことですので皆さんは、考えてないと思われるかもしれませんが、真理の立場から見ると、これは考えていることになるのです。この微妙な働きを仏教では「考える」というのです。「花」と認識した瞬間、もう考えたのです。頭の中ではいろいろなデータが集められ、花と、花ではない無数のものとを比較し、区別して「これは花だ」とほんの一瞬のうちに処理したのです。考えなければ「花」という結論には至れません。この瞬間的に考えることをヴィタッカと言います。

妄想を作る働き(Papañca)

 ヴィタッカの次に、とんでもないことが始まります。「パパンチャ・papañca」ということ。ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが、その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです。これをパーリ語で「パパンチャ」と言います。パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう。実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです。

 たとえば四人で友人の家に行ったとしましょう。部屋に入ると新しいカーテンが掛かっているのが見えました。見えた瞬間、四人とも「カーテンだ」と分かります。これはヴィタッカの働きです。次の瞬間、それぞれの人の心に何らかの感情が湧き起こり、知識というへんなものが生まれてくるのです。たとえばAさんはカーテンを見て「明るくてきれい」と言うし、Bさんは「色は好きだけど模様がへん」と言います。Cさんは「色が派手すぎる」、Dさんは「色も模様も好きだけど生地が薄い」などと、みんな別々のことを言うのです。ですから、同じ一つのものを見ても「何を考えるか」は人によって違うのです。みんな、自分の頭の中で合成して現象化したものを喋っているのであって、事実を喋っているわけではありません。このようにして、外のものが眼に触れた瞬間、心の中に「妄想」という複雑で巨大なエネルギーが現れてくるのです。

なぜ腹が立つのか?

 そこで妄想するときは、欲か怒りか無知という感情が付いてきます。そして感情でごちゃごちゃ妄想したことを「私の知識」と思い込み、さらに「私の知識は正しい」と誤解するのです。そして「自分はこんなことを知っている」と、堂々と皆に喋るのです。しかし何を喋っても、それはその人が作り上げたパパンチャの世界にすぎません。人間社会におけるコミュニケーションや生き方のすべてが、この「パパンチャのからくり」で出来ているのです。だからです、私たちがお互いに別々の世界に生きているのは。みんな自分のことしか知らないし、他人のことは知りません。なぜ私たちは喧嘩するのでしょうか? 自分が考えていることと相手が考えていることが違うからです。「このカーテンの模様はへん」と言われたら、その部屋に住んでいる人は気持ち悪くなるのです。その人が気に入ったから買ったカーテンでしょう。友人に「へん」と言われたら、どことなく貶されたような感じがして、機嫌が悪くなるのです。あるいは、インテリアデザイナーが部屋に来て「このカーテン、ちょっと地味ですね」などと言われると、相手はプロですから、「自分には美的感覚がないんだ」と妄想して自信を失くしたり落ち込んだりするのです。しかし人が何を言おうとも、それらはすべて各人の妄想にすぎません。でも私たちは、妄想は現実で固定的で、実在するものだと思い込み、そのために大変な苦しみを味わっているのです。

 私たちは何の疑いもなく「自分は世の中のことを見ている、知っている」と思っています。しかし、ありのままの事実は見ていません。感覚器官に触れた情報について妄想したものを知っているにすぎないのです。ヴィタッカと妄想は別のものです。ヴィタッカは瞬間的に考える働きで、瞬時に頭の中でさまざまなデータを集め、区別し、判断することです。これはそれほど問題を起こしません。しかし次の瞬間「この花はきれい」とか「汚い」とか「私の意見は正しい」「あなたの考えは間違っている」などと、巨大な妄想の世界がドーンと現れてくるのです。

 妄想するときは必ず自分の好き嫌いが絡んできます。花はきれいと思ったら「好き」という欲が、汚いと思ったら「嫌い」という怒りが入っています。私たちは欲と怒りと無知で妄想の世界を作り上げているのです。人間だけでなく、すべての生命が妄想の中で生きているのです。

大切なのは実験すること

 これまで「認識システム」について軽く説明してきましたが、ここは大変重要なポイントです。ですから、ご紹介したいくつかのキーワードを覚えておいて、日常生活の中でよく実験していただきたいのです。実験することが大切です。たとえば猫を飼っているなら、猫がいる前で眼を閉じて、パッと開けてみてください。その瞬間「猫だ」とお分かりになるでしょう。次に、どんな感情が湧き上がってきますか? 猫が大好きで我が子のようにかわいがっている人なら「かわいくてたまらない」と思うでしょう。これが妄想なのです。そしてこのとき同時に「自分の考えは絶対に正しい ―― 猫がかわいいということは真実である」と固く決め付けているのです。そこへ、猫嫌いの人が家に遊びに来たとしましょう。その人は猫を見たとたん「嫌だ、気持ち悪い」と言いました。そうすると、猫好きの人はすごく気分が悪くなるのです。なんて失礼な人だ、と。できれば二度と家に来てほしくないという気持ち。そこで、なぜ腹が立ったのでしょうか? それは、自分がかわいがっている猫を、相手も同じようにかわいいと言ってくれなかったからです。

 いろいろ実験してみてください。妄想が生まれる過程を、あらゆる場面で観察してみてください。会社に苦手な上司や嫌いな同僚がいるなら、その人を見た瞬間どんな感情が込み上がってくるでしょうか? たいがいは「嫌だ」と妄想するでしょう。でも、ほかの人がその人を見たとき、自分と同じ嫌な気持ちになるかというと、そうではありません。なんのことなく親しく話しているのです。ですから「嫌だ」と思うのは、自分個人の主観であり妄想であって、事実ではないのです。

 どんな親でも、自分の子供は世界一かわいいと思っているものです。でも、近所の子供に対しては、悪ガキと思ったりします。なぜ自分の子供が世界一かわいくて、近所の子を悪ガキだと思うのでしょうか? そこが妄想の世界なのです。真実の世界ではありません。このように、私たちは頭の中で好き勝手にいろんなことを考えて固定概念を作り上げ、それを真実だと錯覚して生きているのです。

ニッパパンチャの世界

 そこで、お釈迦さまは「目覚めなさい、現象を見るのではなく、ありのままを観なさい」と諭されて、パパンチャを破る「ニッパパンチャ・nippapañca」の世界を教えられました。ニッパパンチャの世界とは、一切の妄想概念から解放された自由の境地、いわゆる涅槃のことです。妄想概念を破ることは、簡単なことではありません。しっかり心を育てなければならないのです。たとえば耳に音が触れたとき、どんな音が触れようとも、「聞こえた」と、そこでストップするのです。「あ、上司の声だ → 嫌だ → また何か文句を言われるのか → うるさいなあ → ほんとうに頭にくる……」というふうに勝手に頭の中で妄想を回転させないことです。ただ「聞こえた」、あるいは「音」という事実のところでストップするのです。それだけです。しかし、ちょっと気がゆるむと、すぐに妄想が回転し始めて「嫌だ」とか「うるさい」などという怒りが湧き起こってきますから、常に気をつけるよう、心を育てなければなりません。

 (次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

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