根本仏教講義
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25.自ら試し、確かめる
(1)「誰にでも理解できる」教え
A・スマナサーラ長老

 今回のテーマは「自ら試し、確かめる」です。仏教は、どんな人でも実践することができますし、誰にでも理解できる教えです。だからといって、いい加減に聞かれたら困ります。というのも「誰にでも理解できる」ということは、結局「並大抵のことではない」という意味なのだから。だって高い教育を受けた人も、受けていない人も、男性も、女性も、高齢者も、子供も、大企業の社長も、ホームレスも、誰にでも理解できるというのだから、これには何か深い意味があるのです。あまり軽々しく、いい加減に理解するのはよくないという意味でもあります。

 先に結論を申しますと、なぜ「誰にでも理解できる」と言うのかというと、仏教はどんな人にも関係があり、すべての人に共通することを教えているからです。人だけではなく、生命全体に共通することを説いているのです。すべての生命に関係があることですから、誰にでも「分かりやすいはず」です。「分かりやすい」ではなく、理解しようとしない人には当然理解できませんから「分かりやすいはず」なのです。

Ehipassiko ―― 来たれ、見よ ■

 「Come & See・来て、見てください」。これは仏教の有名なスローガンです。パーリ語では「Ehipassiko」。いわゆる仏教は世間の人たちに向かって自由に話しかけています。すごい教えだから信じなさいと強引に押し付けるのではなく、ちょっと試してみたらいかがでしょうか、見てみたらどうでしょうか、という自由な態度をとっています。誰が来て、何を調べても、こちらは大丈夫です、というかなり強気の態度でもあります。誰でもCome & See・来て見てください、どうでしょうかと。教えには自信がありますし、万が一欠陥があるということはありません。それで、これはどういう意味なのかと話を進めていきたいと思います。

差別社会の中で現れた仏教 ■

 なぜ仏教は「誰でもCome & See ・ 来て、見てください」と言うのでしょうか。それは仏教が「平等の概念」を持っているからです。では、平等とはどういうことでしょうか。

 仏教は、差別が激しい社会のなかで現れました。お釈迦さまの時代、インド社会にはひどい差別があり、裕福な人は極端に豊か、貧しい人は極端に貧しかったのです。金持ちは地方一つぐらいの土地を持っていましたし、貧しい人は何も持っていませんでしたから他人の土地を借りるか、奴隷として生活するか、あるいは路上で生活しなければなりませんでした。このように、当時のインド社会には激しい差別があったのです。

 宗教にも激しい差別がありました。とくにバラモン教は極端に差別主義で「バラモン教という神の教えはバラモン人だけの特権であり、一般人には知る権利がない。だからヴェーダ聖典を読んではならない」と言い、すごい差別をしていました。神にお供えすることは、バラモン人以外の人にはできないのです。今の時代でもこれは変わらず、もしインドに行く機会がありましたら試しにヒンドゥー寺院に行って、お供えをしたいと言ってみてください。いくら豪華な供え物を持って行っても、自分でお供えすることはできません。そちらにいる専門家のバラモン人が神に捧げないと、神は受け取らないそうです。

 そういうふうに、社会には激しい差別があったのです。このような差別主義のまっただ中で、仏教は貴賤の別なく「平等」ということを説いたのです。

宗教の過ち ■

 仏教以外のほかの宗教は、社会の差別制度のことを説き、なぜ差別があるのかということを解明しようとしていました。そうすると、ある宗教と別の宗教の説明に違いが生じてきます。たとえばバラモン教は「世の中に差別があるのは、ブラフマという神が人間社会に四つのカーストをつくったからだ」と説きました。他方、バラモン教に反対しいていた別の宗教は「そうではない、世界は流転している。流転していると、いろんなところに転がる。宇宙も生命も転がって、いろんなところに、知らないところにも転がる。奴隷に転がることもあれば、バラモンに転がることもあり、王様に転がることもある。死んだらどうせまたどこかに転がるのだから、今、自分が置かれている立場や地位、境涯はどうということはない」と教えていました。彼らは「流転」という概念を信じていたのです。また、ジャイナ教では、生物だけでなく植物や山、川など地水火風すべてのものに魂が存在すると考え、その魂にいろいろな物質が付着することによって形態や身体が形成されると考えています。たとえば魂にゾウの物質がくっつくとゾウになり、アリの物質がくっつくとアリになるというように。そこで苦行をして魂に付着する原因となる業をなくしていくことによって解脱することができるというのです。

 このように仏典によると、当時六十二種の宗教哲学があったと言われています。神の概念、魂の概念、業とは何か、定めとは何か、輪廻とは何かという哲学。唯物論や道徳論、時間論など、たくさんの宗教哲学があったのです。さらに、時間論を説く人の中でも、時間は有限と言う人、無限と言う人、時間は存在すると言う人、存在しないと言う人など、さまざまな意見に分かれ、互いに論争していたのです。

 そこでポイントは、どの意見が正しいかということではなく、宗教家たちは、時間が存在するかしないかとか、魂があるかないかという問題で大騒ぎし、研究したり、考えたり、論争したりして、忙しかったということです。それで結局どうなったかというと、宗教の目的から脱線し「宗教は何のためにあるか」という宗教本来の役割が分からなくなったのです。時間が存在するかしないかを解明するのに忙しいものですから、そちらを考えなくてはならなかったのです。魂があるかないか、それは大きいか小さいか、と。たとえばバラモン教では「魂は親指ぐらいの大きさで、心臓の中に存在している」と主張していました。その論に対して別の宗教は「親指ほどの大きさのものが心臓に在るなら、心臓を切れば確かめることができる」と反論します。そうするとバラモンはさらに「魂は人間の目には見えないから、心臓を切っても我々には見えない」と言い、それに対して反論者はまた何か言うのです。そういうことで忙しくて忙しくて、いったい宗教って何のためにあるのかということが分からなくなり、宗教が本来やるべき仕事をやらなくなったのです。

 これは現代社会に生きる私たちにとっても同じことで、余計なことばかりに気がとられていると、本来やるべき大事なことがおろそかになり、ひどい結果になります。たとえば家庭の奥さんが仕事や社会活動に忙しくて家のことを何もやらなくなるということがあるでしょう。料理はしないし、掃除もしないし、子供の面倒も見ない。結果として家庭はめちゃくちゃになるのです。

仏教がハイライトしたもの ■

 形而上学的な観念を語ることには意味がない、とお釈迦さまは教えられました。魂はあるかないかとか、天国はあるかないかなど、試す方法もなく、証拠もないことは考えてはいけません、時間の無駄ですと。答えに終わりがないから禁止なされたのです。そこでお釈迦さまがハイライトして説かれたのは、すべての生命が日々生々しく経験している苦しみや不安、悩み、死の恐怖などについてです。これならどなたにでも直接関係があることですから、理解できるしょう。夫婦喧嘩した、仕事でミスをした、試験の成績が悪かったなどのちょっとした悩みから、会社が倒産した、子供が交通事故に遭ったなど大きな苦しみまで、悩みや苦しみが尽きることはありません。お釈迦さまはこの「苦しみ」にハイライトして教えを説かれたのです。
(次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/文責;出村佳子)

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