根本仏教講義

25.自ら試し、確かめる 2

対機説法は最上の特効薬

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏教は、私たちが日々感じている不安や悩み、苦しみ、死の恐れなどをハイライトして説いています。これらはどんな人にも直接関係があることですから誰にでも「理解できるはずである」というところまで前回お話いたしました。

「苦しみを解決する」教え 

ですが「苦しみ」だけについて話しても、あまり役に立ちません。「生きることは苦しみである」とそれだけ説いても意味がないのです。お釈迦さまはさらに「苦しみをどう解決すればよいか」「このように解決したらどうか」と、苦しみを解決する方法も説かれたのです。また、魂とは何かとか、神が世界を創造したかどうか、宇宙の起源はいつか、などということはどうでもよいのです。これらには証拠も試す方法もありませんから、そんなことを考えると時間がどんどんなくなってしまいます。そうではなく、現実の問題に目を向けることが大切です。私たちは日々いろんな問題に出会っています。ものごとがうまくいかなかったり、トラブルが起きたり、苦しんだり、悩んだり、さまざまな問題があるでしょう。それらを客観的に観察し、さらに解決してゆくことが重要であるとお釈迦さまはおっしゃられたのです。

今も昔も変わらないもの 

仏教は「時代によって古くならない教え」です。なぜかといいますと、仏教は「人間の悩み・苦しみ」について説いているからです。二千五百年前であろうか、二十一世紀であろうか、時代に関係なく、人は誰でも不安や不満、悩み、苦しみを感じています。時代が変わっても、人類には苦しみがそのままあるのです。科学技術の発展によって世界は大きく変わりました。今と昔とでは信じられないほど変わっています。でもその中で変わらないものは何かというと、人間の悩みや苦しみなのです。これは今も昔も全然変わっていないのです。たとえば昔の人々は田畑で農作物をつくって生活を営んでいました。IT時代で多忙な毎日を送っている現代人から見れば「昔の人たちは自給自足の生活をして、気楽に、のんびり暮らしていただろう」と思うかもしれません。でも昔の人々も大変だったのです。せっかく耕した田畑を動物に荒らされる危険性がありましたし、旱魃で雨がまったく降らないこともありました。逆に洪水で農作物が流されることもありました。ですから昔の人々は収穫するまですごく不安だったのです。収穫したあともまだ安心できません。泥棒が家に忍び込んで収穫物を持って行かれる恐れもありましたから。このように昔の人にも生きる苦しみや不安はあったのです。現代は監視カメラや警備システムが整っているから大丈夫、現代人は安心だと思うかもしれませんが、それはあり得ません。今も同じで、昔よりさらに巧妙な手口を使って時代に沿った現代風の犯罪や問題が起きているのです。

また、夫婦喧嘩は普遍的なものです。五百年前の夫婦が喧嘩して味わう苦しみと、現代の夫婦が喧嘩して味わう苦しみには、何か違いがあるでしょうか。五百年前に子供が病気で死んだときに親が味わう苦しみと、今子供が病気で死んだときに親が味わう苦しみは違うのでしょうか。同じです。ですから人間の苦しみは普遍的なのです。しかし私たちは苦しみに出会ったとき「苦しんでいるのは自分だけだ」と思い込み、なんで自分だけこんなに不幸なのか、なんで自分だけ苦しまなければならないのか、この苦しみは誰にも分からない、などと妄想して、さらに苦しんでいます。でも本来、苦しみは誰にでもあるものであり、これは今も昔も変わりません。

生き方次第で苦しみは増減する 

苦しみは誰にでもあります。昔の人にも現代人にも、男性にも女性にも、子供にも大人にも、金持ちにも貧しい人にも、教養のある人にも、ない人にも、誰にでもあるのです。年齢、性別、生まれ、職業、地位、お金の有無、知識の有無に関係なく、すべての人に苦しみがあるのです。苦しみは皆「平等」です。しかし、その質や量は同じではありません。各個人の考え方や生き方によって質は異なりますし、増えたり減ったりもするのです。苦しみは皆に共通してあるものですが、苦しみを減らすことも増やすことも、生き方次第で増減できるのです。

苦しみを解決する人・解決できない人 

すべての人が苦しみを抱えているにもかかわらず、世の中には「苦しみを解決しようとする人」と「解決しようとしない人」がいます。では、どのような人が「苦しみを解決しよう」とするのでしょうか。それは苦しみを自覚する人たちです。「生きることは楽ではない、苦しい、大変だ、いろいろ問題がある」と自覚する人たちが、苦しみを解決しようと努力するのです。たとえば子供がひきこもりになって学校に行かなくなったとしましょう。そのとき母親はすごく苦しみを感じるのです。なんでうちの子は部屋から出てこないのか、なんで私に何も話してくれないのか、自分の育て方が悪かったのではないかと悩み、そこではじめて「何とかしたい、ではどうすればよいか」という解決方法を探すのです。

では「苦しみを自覚しない人」は幸せなのでしょうか。世の中には苦しみを自覚せずに自分は幸せだと思っている人たちが結構います。「苦しいことは気にしません。うちの子は三年間もひきこもりになっているけど、私は全然気にしていません」と平気で言う母親もいますが、あれは幸せなのでしょうか。実はそういう人々は治らないほど重症なのです。気づく余裕もないという状態で、苦しみのどん底にいるのです。怖くて恐ろしくて現実の問題や苦しみに直面することができないのです。苦しみを受け止めることができず、問題をごまかしたり紛らわしたりすることによって人生を過ごしているのです。

医者が薬を処方するように 

お釈迦さまは、人々が抱えている苦しみや問題を解決するために「対機説法」という方法を用いて法を説かれました。対機説法とは何でしょうか。ある宗派の中には「対機説法は相手に合わせて適当に喋っているだけだから、たいしたことない」と言って対機説法を軽視する人たちもいるようですが、こういう人たちは仏教を深く理解していませんし、対機説法の本当の意味を知らないのです。対機説法とは、相手の性格や能力、素質に応じて、相手が理解できるように法を説くことで、これはちょうど医者が病人に的確な薬を処方するのに似ています。風邪をひいている人には風邪薬を、胃の調子が悪い人には胃薬を、頭が痛い人には頭痛薬を与えるように、お釈迦さまは出会う人々の性格や能力、素質に応じて、その人の問題が解決するように的確に教えを説かれたのです。そうすると、聞く側は自分の問題の解決法を具体的に教えてくれるのだから、目も耳も自動的に開き、わずかにでもよそみをしようとせず、お釈迦さまの言葉一語一語にじっと耳を傾けて聞くのです。

対機説法というのは苦しみの特効薬です。相手が実際に直面している苦しみ、悩み、落ち込んでどうしようもなくなっている問題を解決するために法を説くことが、対機説法なのです。ですからこれは一人ひとりにとって最適の説法です。聞く人は確実に理解できますし、また問題を解決するために実践しようともします。したがって、対機説法は聞く人とって100%役に立つ最上の特効薬なのです。

(次号に続きます)