根本仏教講義

2.テーラワーダ仏教 5

自分という人間の実態

アルボムッレ・スマナサーラ長老

皆さんは外国映画などで医者が患者の悩みを聞いて治療するシーンをご覧になったことがあるでしょう。患者は長椅子などに横たわりながら身体をリラックスさせて、自分の心にあるすべてを医者に喋ることによって、胸のつかえを収めると言うか、思いをすべて吐き出すことによって心のなかをきれいにしていくという心理学の典型的な治療法の一つです。

ヴィパッサナー瞑想法の実践の過程にもこの心理学上の療法とよく似たことが起こります。似ていながら決定的に違うのは、心理学ではちゃんと自分の話すことを聞いてくれる信頼すべき医者がいるのに対して、ヴィパッサナー瞑想では、聞いてくれる人も受け止めてくれる人もまったくいないということです。つまり、自分で心の思いを吐き出しておいて、それを自分で聞いていると言う点でしょう。ヴィパッサナー瞑想法は心にあるものすべてを、驚いたり、感情的になったりせず、冷静に客観的に一つ一つ観ていくことによって心をきれいにしていくことを目的にしています。人間の心というものは実にさまざまなことを思ったり考えたりするもので、ヴィパッサナー瞑想法を実践しはじめると、よく「もう嫌だ」とか、「もうやりたくない」と言いだす人を見受けます。それは、人間の心は本来きれいなものばかりを抱いているわけではなく、例えば「私はずっと平穏に生きてきてこれが幸せな暮らしと思っていたのに、自分自身にこんなに見苦しく、穢く、醜い恐ろしいことを心に抱いているのかと思うと、もうヴィパッサナー瞑想法など続けたいとは思いたくもない」といった言葉に象徴されるような経験を味わうからです。しかしそのことに動揺することは一つもないのです。それはヴィパッサナー瞑想法を実践したから芽生えた心の現象ではなく、もともとあなたの心にあったものが出てきたに過ぎないのですから。あなたのいる部屋を考えてみましょう。ある時あなたは自分の部屋の押入れを掃除しようと思い立ち、押入れを開けました。ところが押入れには使いものにならないようなガラクタがいっぱい詰め込んであり、分厚く埃がかぶっていて、その汚さに思わずあなたはギョッとします。でも、考えてご覧なさい。そういう部屋にしたのは他ならぬあなた自身なのです。それと同じように、心にもそうした汚い、埃をかぶったものを自分で詰め込んでいて、それが出てくるのです。

ヴィパッサナー瞑想をつづけているとそうした心の中身が次々と出てきて驚かせますが、決してそれについてショックを受けたり、ご自分を責めることはないのです。あなたのなすべきことはそうした現象に対して、平然と客観的にそれらを確認し、ただ観ていくことです。そうした現象に対して善し悪しの判断は一切しないことです。何か見えてきても、ラベル(言葉)を貼っていくことだけが重要なことです。ヴィパッサナーとは、自分の心をありのままに観る瞑想法です。至極単純なことで、寒ければ「寒い、寒い」とラベルを貼り、痛ければ「痛み、痛み」とラベルを貼る、ただそれだけのことです。

ふだん私たちは無意識に行動することが多いものです。歩いているときには、「歩いている」と確認して歩く人はいないと思います。歩きながら、今晩何を食べようかと考えたり、昨日喧嘩した彼女のことを思ったり、あるいはこれから会いに行く人のことを考えたりして歩いています。一つの行動をしながらその行動とは違うことを考えているのです。私たちはありのままの自分を観るということに慣れていません。「歩いた」という自分はどこかに押しやって、心は「事実」とはかけ離れた物事に執着して勝手な“行動”を起こしています。心は気儘です。その心の気儘さが実は人間に苦しみを作りだしている根幹なのです。

一例を挙げましょう。会社でいつもあなたに声をかけてくれる上司が、その日に限って挨拶をしても返事もしてくれません。どうしたのだろう? ひょっとしたら自分は左遷させられるのではないだろうか。きのう命令された仕事に自分でも気がつかない重大なミスがあったのだろうか?

それとも上司の機嫌を損なうような態度をとったのだろうか? あなたの心は千々に乱れ、その日一日仕事が手につきません。しかし、よく考えてみれば上司が声をかけてくれなかったのは、別にあなたが原因であったとは限らないし、上司自身のきわめて個人的な理由にすぎないのかもしれません。にも係わらず、あなたの心は勝手に自分で妄想を作りだし、悩み、苦しみの心を芽生えさせては一人もがいてしまうのです。その、心の勝手な行動から起こる苦しみから逃れるためには、ありのままの事実を観ることから始めなければなりません。しかし、ヴィパッサナーの知識の乏しい人にいきなりありのままの自分を観よと言っても、それは分からないほうが当然です。そこで、ヴィパッサナー瞑想法の初歩を教えるのです。

ふつう人間が何もしないで呼吸だけをしているときとはどんな状態でしょう。
座ってでも立ってでも呼吸をしているときは、息を吸い込めばお腹が「膨らみ」息を吐きだせばお腹は「縮み」ます。何もしないで呼吸だけしている状態になっている自分を観察すると、お腹が「膨らみ」お腹が「縮み」この繰り返しですね。「膨らみ」「縮み」。「膨らみ」「縮み」。自分の呼吸を一つ一つ丁寧に確認する。これがまず自分のいまをありのままに観ることの基本です。膨らみ、縮み、膨らみ、縮み。しかし、こうして膨らみ、縮みを確認しているあいだでも心は気儘に動き回っています。座っていれば足が痛くなったとか、眠気が襲ってきたとか、彼氏のことが気になったり、さっき食べた昼食の味を思い出したり、心はお構いなしに奔放です。

ところで、瞑想というとたいていの人が、「自分は集中するのが苦手で」とか、「じっとして物事を考えるのが辛くて」などと、“瞑想=集中力”という図式を連想している人がどうも多いようです。この世の中の瞑想には確かに、ヨガ的瞑想やサマディ的な瞑想のように集中を重要視する瞑想もないわけではありません。しかし、心というものはいろいろなことをやりたがり、落ち着きがなく、見たり聞いたり、また喋ったり考えたり苦しんだり悩んだりと、めちゃくちゃに脈絡のないことをやりたがる習性があるのです。集中を強要することによってその習性を否定して強引に瞑想をやると、せっかく心をきれいにしようという目的を持って始めたのに、それでは逆効果を生んでしまうのです。ヴィパッサナー瞑想法はその気儘な心の動きを一つ一つ丁寧に観ていくのです。

「膨らみ」「縮み」を認識している最中に、心にはいろいろなことが浮かびます。浮かんだその現象を否定することはありません。例えば、嫌な人の顔が浮かんでも、「妄想、妄想、妄想」と三回ほど言葉のラベルを貼って観るのです。足が痛いという思いが出たら、「痛み、痛み、痛み」というふうにラベルを貼ります。この瞑想は、妄想の出る回数が多い、少ないはいっさい関係ありません。妄想が次々と出たとしても、それはその人の心の動きなのですから、丁寧にラベルを貼って確認していけばいいのです。要は、ラベルをどれだけうまく貼れたかに瞑想の善し悪しの基準があるといったほうがいいでしょう。集中力がなくても、どんなに妄想が出てきても、ラベルさえきちんと貼れれば、瞑想は出来たと言えるのです。ですから難しいことは何一つありませんし、幼時から老人までだれにも簡単にできるのです。ラベルという意味がよく理解できない人は、心に浮かんだことを感情的に処理せず、無機質な言葉によって確認することと考えてください。無機質とは、一例を挙げれば、足が痛いというときに、足がどのように痛いのかというような自分の感情を加えずにただ、「痛み、痛み」と痛んでいる事実だけを確認することが大切です。

また確認とか、ラベルを貼るとかいうことに神経質になることもなく、のんびりリラックスしてやることが肝心です。自分の心に起こることをじっくりと確認することです。妄想が起こってもそれをラベルで貼れば妄想は消えるはずです。消えたら再び「膨らみ」「縮み」に戻るのです。何でもありのままに観ることから徐々に解脱への道が開かれるのですから、実践をつづけてください。

ヴィパッサナー瞑想法を実践しはじめると、さまざまな現象(邪魔や壁、眠気や妄想)が起こります。ある時はすごくいい気持になって、ああやってよかったなと思ったり、次の日は一転して嫌なことばかり妄想したり、体が痛いだけで何もできないというときもあります。良くなったり悪くなったりの繰り返しのような日が続きますが、それはだれでも経験することで安心してください。
これまで自分というものを一度も確認したことのなかった人が、瞑想をするために初めて座ったわけです。人間は本来肉体的にも精神的にもものすごい苦しみを持っているわけですけれど、我々はそのことを日頃感じていない、つまりその事実を冷静に観察していないだけなのです。ところがヴィパッサナー瞑想をやると気持が良くなっていままでの心のなかの混乱が一時的に止まるので、その差が良く見えてくるようになる。さらに進んで今度は痛みや苦しみがどうして出てくるのかと言えば、それは瞑想によって元の自分に戻ったり堕落したりしたわけではなく、体の大雑把な痛み苦しみは消えたが、自分の体が実はそれだけではなく微妙な痛み、苦しみに包まれていることが見えてきたということなのです。

妄想にしても、ヴィパッサナー瞑想法を続けていくなかで、いくつもの段階での妄想がありますし、一つの妄想をラベルを貼ることによって消したとしても、すぐまた違う妄想が出てくるというように心は実に多層、重層的に構成されているのです。ラベルを貼るという而も初心者や経験者、さらには智慧を身につけた人などいろいろな段階があって、毎日同じような瞑想をやっているようでもまったく違うのです。ですから最初にヴィパッサナー瞑想でラベルを貼った人も、一ヵ月後に貼るラベルは違うし、回数を重ねるごとに丁寧に貼れるようになってきているはずなのです。例えば最初に怒りや欲が見える。進んだところでもまた見える。さらにやるともっと詳しく、その欲や怒りの発生が確認できてくる。本物のヴィパッサナー瞑想の解説の高いレベルに人ると、すべてがもっともっときめ細やかにきれいに見えてくるものなのです。自分をも現象そのものとして観ることが出来るのです。そのレベルでは心はとてもきれいな状態になっています。事実を観つづけることて事実の関係や、なぜこの出来事が生まれたか、生まれるのか、ものごとが生まれて消えていく過程やありとあらゆる現象が自然に分かってくるのです。