根本仏教講義
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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3.祈り・感謝
(1)恐れが宗教を生む
A・スマナサーラ長老

 今日から何回かにわたって、祈る対象は本来何なのか、何のために祈るのか、ということについてお話ししていきたいと思います。

 テーラワーダ仏教を勉強していくと、あくまで自分の心を清らかにすることばかり勉強させられるので、普通の宗教の概念、つまり誰かに頼りたい、という気持ちをどこへ向ければよいのか、という質問がよく出てきます。誰に向かってお祈りするのか、あるいは感謝するのか、ということです。人間は常に宗教の中で、祈り、感謝し続けてきました。

 人間の歴史をどこまでさかのぼっても、宗教というものを見つけることができます。何かを対象としてお祈りしたり頼み事をすることから、どんどん発展して宗教が生まれてきたんですね。

 遠い昔は、自然を拝んできました。宗教の起源については百科事典でもひいてみればすぐわかると思いますが、人間は自然に対し「恐怖感」を持ち拝み始めたのです。たとえば大雨が降って、自分の住まいや動物達が洪水に遭い、大変な目にあったとか、雷が落ちて人が死んだとか、また山や森の中に入っていった人が戻ってこない、そういう経験が結構あったのではないかと思います。それで森も山も怖くなってしまうんですね。遠い昔は鉄砲を持って狩りに行くわけではありませんから、自分の腕一本が勝負なわけです。そうするとやっぱり自然は怖いし強いし、自然がちょっとだけ我々を許してくれなければ生きていられないことがよくわかっていたのです。その恐怖感にもとづいて人間のお祈り習慣、お祈り信仰が生まれてきました。モヘンジョダロ文化、メソポタミア文化、いろいろな古代文明の中を見ても、やっぱり自然を拝んでいます。

 人間の宗教が根本的には「恐怖感」から生まれてきているということは、現代に至っても変わりません。このことは一応覚えておいた方がいいと思います。宗教に惹かれる人は、心の中に恐怖や不安がある人が多く、逆に自分が完壁に幸せだと思っている人、やることなすことうまくいくという自信満々の人は、宗教にそれほど興味を持たないはずです。そういう人は偉そうに振る舞い倣慢で、他の人を馬鹿にして生きているのです。

 法句経の中にある例文で、バウン人は様々なことに帰依しているというものがあります。山々、大きな森、アーラアーナという聖地、清らかな場所、木、大木、あるいはパゴダのようなお祈りの場所、お墓、そんな数多くのものを拝む。それは人間が心にものすごい恐怖を抱いているせいで、心と身体が揺れ、そのためにあっちへもこっちへもお願いします、お顔いします、と色んなことを拝んでいるんだと言うんですね。お釈迦さまの言葉ですが、まるでまったくの無神論者のような言葉ですよね。でもそれは、批判的に言っておられるのではなく、すごくやさしい心で人間を見たお釈迦さまの感想なんですね。

 田んぼが作れるようになって田んぼに水が入って農作物ができるなら、食べて遊んでればいいと思うのにやっぱり田んぼを拝んだり、田んぼに水が流れてくる川を拝んだりするんです。でもそれを感謝だと誤解してはいけません。やっと成功しましたが来年はどうなるかわかりません。ちょっと雨が降りすぎたり、あるいはちょっと降らなかったら、それだけで田んぼはパアになってしまうかもしれません。そんなちょっとした自然の営みを前にして人間は本当に無力なんです。何の力もない、お手上げ状態なんですね。そこから宗教が生まれたんですね。だからといって手を上げているわけにはいかない、おなかがすいたらご飯を食べなければならないし、家族や子供があれば食べ物を作ってあげなくてはならない、となりの部族が攻めてきたらけんかもしなくちゃならない、やらなければならない仕事がたくさんあるのです。がんばらなくちゃならないのに自然の前では人間は何もできない。ではどうするかと言えば頼む、お願いするしかないわけです。

 一番古い宗教経典など、たとえば VEDA 聖典などを読むと、ただの雨、ただの嵐、洪水、ただの空気や火や水を拝んでいるんです。なぜなら自然は怖いですからね。

 それがどんどん歴史が進むと人間が自然に慣れてしまうんですね。洪水がどうやって起きるか、乾期になぜなるのか、ということはわかるようになってくる。でもとなりの部族に襲われて親族が殺されるというようなことが起るとそれはなぜだろう、どうすれば防げるだろうということは考えるようになるんですね。すると自然に対する恐怖感はどんどん少なくなってくるんですね。

 森を考えてみましょう。突然知らない森に入ることになったら、必ずお祈りしていきますね。怖くて怖くて足も震えるかもしれません。ネクタイを締めた、どんな知識ある日本人でもきっとお祈りするのではないでしょうか。とにかく怖い。では、怖い相手ははっきり言うと何なんですか、と聞くと、はっきりしたものは何もない。理屈じゃなくただ怖いのです。

 しかしだんだん人々が森のことを知ってくると、どこに石がありどこに木がありどこに穴があるかわかってきます。すると怖くなくなってきますね。そうなると人は、森そのものを神だと思うことにちょっと物足りなさを感じるようになってくるのです。それで「森は神」ではなくて、「森の神」になるのです。

 ちょっとした違いのようでそのひとことの変化は、たいへん重要な信仰の変わり目なんです。森が神、雨が神、だと拝んでいた人々が、森の神、雨の神、嵐の神と考える時代に入るわけです。Polytheism、いわゆる多神信仰の時代です。八百万の神、神がたくさんいると考えるんですね。

 それがもう少し進むと、神々がいっぱいいて、いい加減に勝手に活動すると困りますから、今度は政治的に管理しなくちゃならなくなってきます。つまり、神々のランクを決め始めます。地上の神、もっと上の神、といったランク、それから人間以下のレベルの霊的な存在も出てきて政治的なシステムができ上がってくるんですね。四方八方守り神がいて、死人の面倒をみる神がいる、病人の面倒をみる神がいる、人々に恵みを与える神がいて天罰を与える神がいて、仕事別に神が分けられ神々の国家のようなものができてくるんですね。

 それがまたややこしいんです。それでまた暇ができると人間は抽象的に考え始め、やっぱり神はみんなまとめてひとつの抽象的な「神」という存在と考えようということになるのです。大文字の G で始まる GOD、唯一ひとりしかいない絶対神が生まれるのです。小文字の g で始まるそれまでの god とはまったく違うのです。 god には複数形がありますが GOD の方には単数形しかないのです。

 人間を作って育てて、面倒をみて亡くなったら自分のところに連れていって、というすべての権力を持っている一番偉大なる神を創造して、他の神々を全部偉大なる神の創造されたものだと考えるようになるわけです。今現在ある神の概念はこのあたりから来ています。

 もう少し時代が進むと、すべてはひとつの偉大なる神であると考えられるようになります。そして神の次元、つまりすべてを創った創造者の次元と、創られた我々の次元という風に、二次元的になってきます。

 それがもう一歩進むと、一次元になります。一元論というのは森羅万象すべては神である、一切が如来であるという概念なのです。創った神がある部屋にいて、創られた我々が別室にいるのではなくて、それは幻想なのだという考えです。本当は我々も神そのものであり、無知だからそれを知らないだけでそれに気づけば自分は神そのものであるということを悟るという考えは、現在もまだ残っています。後百年経てばどう変化するかわかりませんが、今まで申し上げてきた簡単なフレームの中に、世界宗教のすべてが入っています。一応宗教というものは発展があるんですね。

 キリスト教のゴッドは二次元にまだ止まってるんです。イスラム教のゴッドも、ユダヤ教の神様も二次元論で止まっています。ヒンズー教は最近、といっても西暦七世紀からいろいろなテキストが現れて、そのころから一元論の宗教に変化してきたんです。日本の大乗仏教も一元論ですね。すべては仏様であり如来であるという考えです。どんな宗教も、私が先ほど荒っぽく述べたフレームを外れて考えることはできません。これは私が個人で作ったのではなくて、宗教の歴史の中にはそういう進化があるということです。

 さて、大きく歴史を見てきた後で、もう一度宗教の出発点に戻ってみましょう。恐怖、怖いと思う気持ちから「信じる心」が始まったと先程からお話ししてきましたが、では今ではその怖いと思う気持ちは消えたのでしょうか。答えは否、消えていないのです。

 いまだに我々が宗教に求めているものは、やっぱり怖いから何とかしてちょうだい、という単純な願いなのです。それから、その次に付け加えたのは、人間いつでも怖い目に遭っているわけではなくて、色々いいこともいっぱいある。そういうときには怖い目には遭わなかったのだから、今度は無事に成功しました、神様ありがとうございますと感謝する、ということが出てくるんです。ですからお祈りというと「守ってください」というお祈りと「ありがとうございます」というお祈りと2種類あるのです。

 そんなこというと、不謹慎だと思われますか? 反論があるならばおっしゃってください。違うお祈りがありますとか、違う信仰、違う立場の宗教があればお聞きしましょう。もちろん、もっときめ細かく説明し始めると色々あって、ひとつの宗教を勉強すると一生かかりますから私も枠組みとしてとらえることまでしかしていません。

 日本人はどうでしょう。他の国では宗教は行動文化のひとつとしてとらえられることが多く、たとえば私が宗教活動をしていると尊敬されるわけです。普通の人々と少し違う特別な扱いを受けます。日本人は宗教というと過去の遺物かいかさまの世界であるかのように毛嫌いする、大の宗教嫌いだと思われているんですが、事実は逆なんですね。お正月を見ればわかりますね。神社やお寺に行かない人はまずいません。なぜあんな馬鹿なことをするのかわかりませんが、すべての御利益を一日で儲けようとして何かお願いごとを持って一年に一回だけ行き、お祈りし、いきなり世界で一番宗教に関心のある民族になっちゃうんです。他の国々では毎日のように行っており、一年のうちある一日だけということはないですよね。

 次回はこれら日本人の宗教行動、祈りについてもう少し詳しく見ていきながら、仏教における祈りの話に入っていきましょう。

(スマナサーラ師講義より構成しました)

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