根本仏教講義
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27.(新連載)なぜ苦は偉大なる真理なのか
(1)私たちの知らない巨大な真理
A・スマナサーラ長老

 初期仏教の非常に重要な概念のひとつに、Dukkhaという言葉があります。これは「苦しみ」という意味です。この言葉は昔のインドでよく使われていた言葉であり、特別に複雑な意味があるわけではありません。人生には苦しいこと、大変なこと、悲しいことがいろいろあります。それで何か苦しいことにあったら、当時のインドでは「ドゥッカだ」と言っていたのです。

 お釈迦さまはこの「苦しみ」いう言葉を使って、「偉大なる真理」として語り始めました。「私は偉大なる真理を発見しました。人類で初めて発見しました」と。そう言われると、なんとなく笑いたくなるのではないでしょうか。だって皆さんは人生は大変で苦しいことぐらい、とっくに知っているでしょう。「苦しみ」という言葉で何を発見したのでしょうかという気持ちにもなります。
 そこでお釈迦さまは自分が発見した「苦しみ」と、一般的に使われている「苦しみ」を区別しました。「苦しみ」という言葉に、ariya sacca 「聖なる真理」という言葉を付け加え、Dukkha ariya sacca 「聖なる苦の真理」とされたのです。ariya というのは、「一般的ではない」という意味で「聖なる・優れている・一般レベルを乗り越えている」という意味。sacca は「真理」という意味です。そこで、この「聖なる真理」を付け加えることによって、一般的な意味の「苦しみ」と差がついたのです。

 では、私たちが日常生活のなかで使っている「苦」と、お釈迦さまがおっしゃった「聖なる苦の真理」はどのように違うのでしょうか? マラソンで二十キロぐらい走ると結構きついでしょう。そのとき私たちは「苦しい、苦しい」と言います。そういう日常生活の「苦しい」ということと、「聖なる苦の真理」とでは、どう違うのでしょうか? なぜ「苦しみ」を「聖なる真理」と言うのでしょうか? 

 お釈迦さまは「聖なる苦の真理」を発見したとき、このようにおっしゃいました。

「今まで私は苦ということを知らなかった。今まで知らなかったから苦しんでいた。すべてのものが苦であると分かった瞬間、心は完全なる安らぎを体験した。これから心には微かにでも悩み苦しみは生まれない。最終的な平安の境地に入った。やるべきことはやり終えた。なすべきことはなし終えた。育てるべきものは育て終えた。修行は完成した。心の解脱は揺らがない。これが最後の生まれであり、これより再び生まれることはない。生は滅した。これでやることはなくなった。すべて終わった」

 私たちは、苦しみということぐらい知っている、と思っているかもしれません。しかしお釈迦さまにとっては「苦しみ」を理解することこそが、大変な発見だったのです。ですから、それはどういう意味なのかと、これから考えていきましょう。

宗教は何を説いているか?

 仏教に対する批判がよくありまして、特に西洋では研究論文がいろいろ書かれていますが、そちらの考え方を見ると、仏教に対してはあまり好意的ではなく、仏教は悲観的だ、暗い教えだ、私たちが生きているこの世の中を認めていない、などと言っています。なぜ、そう言うのでしょうか? それは、喜びや楽しみを語っている他の宗教と比べて、仏教は悲観的だと批判しているのです。

 しかし、よく見てください。「人生は素晴らしい」と楽観的に語っている宗教や哲学はあるでしょうか? 世の中にはいろいろな宗教があります。どんな宗教でも、宗教は人間について語っています。そこで「生きることには喜びしかない。人生は楽そのものだ」と説いている宗教はあるでしょうか? よく見ると、どの宗教も「生きることは苦しい、大変だ」という立場で語っているのです。それで「何かしなくてはいけない」ということが出てくるのです。この「何かしなくてはいけない」というところが宗教なのです。「あんたがた、そんな調子だったらだめですよ。危険ですよ。何かしなくてはいけませんよ」と言って、祈りや儀式、断食など、なんらかの修行法を紹介しているのです。「何かをやらなくてはいけない」ということはつまり、今のままではダメということであり、この世の中にケチをつけていることなのです。たとえばイスラム教では一日五回お祈りしなさいと言っています。これはいわゆる、お祈りをしなければ何か危険な目に遭いますよ、と言っていることと同じなのです。ですから世界を悲観的に見たのは仏教だけではありません。組織化された大きな宗教はすべて、そういうふうに見ていたのです。

 そこで、すべての宗教が「人生は苦しみである」と見ているのですから、「どの宗教も同じではないか」という疑問が生まれてきます。

「二分化できない苦」の発見

 仏教と他宗教の違うところは、お釈迦さまは二分化しなかったところです。他の宗教は「天国に行けば安心だ」と信じて修行をしています。つまり、天国という世界があり、天国(来世)と人間の世界(今生)とを区別して、人間の世界は苦しく、天国は極楽だと考えたのです。「この世はとんでもない苦のかたまりで、あの世は楽のかたまり。天国に行けば苦しみがまったく無く、万事解決。人間の世界は危険だから、天国で楽を得るために、いま修行しましょう」と言い、二分化したのです。これに対し、お釈迦さまはこのように説かれました。「人間の世界も天国も苦しみです。どこに行ってもあるのは苦しみです。二分化することはできません。一切が苦しみです」と。

 この「一切は苦しみである」という真理を、お釈迦さまはご自身の智慧で発見しました。発見した瞬間、心に究極の安らぎと至上の幸福が生まれました。「一切は苦しみである」ということが「偉大なる真理」であり、ここが普通の「苦しみ」と違うところなのです。

本音は「苦」を認めたくない

 次のポイントを考えてみましょう。皆さんは「生きることは苦しみである」ということを本当に知っているでしょうか? 知らないと思います。本当のところ、私たちは「生きることは楽しい」と思っているのです。今ちょっと不快なことがあってもどうということはない、必ずいつか幸せになる、人生は楽しい、幸せそのものだ、と思っているのです。「苦しみ」ということは全然認めていないのです。

 ここは仏教を説くときにいちばん苦労するところなのですが、私たちは心で思っていることと反対のことを口で言う傾向があります。本心と逆のことを堂々と言うのです。「人生は大変だ、生きることは苦しい」と口で言っていても、心のなかでは、苦ということはひとかけらも認めていません。心では「そんなことはありっこない。生きることは楽しい。人生は素晴らしい。幸せだ」と思っているのです。あるいは「少しぐらい大変でもたいしたことはない。すぐに幸せになる。大丈夫だ」と考えているのです。でもそんなことを口に出して言うとみんなバカにされますから、「大変ですね」と言うのです。

 簡単な例をあげましょう。子供が桃を持って、「困った、大変だ、食べられない」と言って泣いています。なぜ食べられないかというと、桃の皮が毛虫の皮膚みたいにギザギザしていて皮がむけないと言うのです。そこで、お母さんはこう言います。「桃の皮がギザギザしていても大丈夫ですよ。こうやって爪を使ってむいてください。そうすればおいしい桃が食べられますよ」と。世の中の考え方も、この母親のようなものです。私たちは「世の中の苦しみはたいしたことない」と考えて、「すぐにおいしいものが食べられる。楽しいことがやって来る。未来は明るい」と考えています。これが世間の一般的な人生論で、世の中の苦しみについて、みんなが語っていることです。

 お釈迦さまの教えはこれとは違います。「苦しみ」という皮をむいてもむいても、おいしい実や種、固体は何も出てきません。そんなものは無いのです。たとえば誰かが「たまねぎの種はものすごく美味しいですよ」と言ったとしましょう。その話を信じた人は、たまねぎの皮をむいていきます。最後に何が見つかるでしょうか?何も無いのです。実も種も無いのです。お釈迦さまがおっしゃる苦しみというのはそのようなもので、表面の苦しみをなくしてみたら、次にまた苦しみが出てきて、それをむいてみたら、また次の苦しみが出てきて、それをむいてみたら、また次の苦しみが出てきて……。結局苦しみを抜けて抜けて、乗り越えて乗り越えていっても、次から次へと出会うのは苦しみなのです。ですからお釈迦さまは「一切は苦しみです」とおっしゃったのです。

(次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/編集;出村佳子)

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