根本仏教講義
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27.なぜ苦は偉大なる真理なのか
(3)出口のない迷路
A・スマナサーラ長老

 人生は迷路のようなものです。いったん迷路のなかに入ってみたら、壁だらけ。右に曲がると、壁。左に曲がると、また壁。まっすぐ行ってしばらく歩くと、また壁……。そしてまた壁……。歩いても歩いても、ぶつかるのは壁、行き止まりなのです。果たしてこの迷路に出口はあるのでしょうか?
(前号から続きます)

 人生という迷路のなかで、私たちはどの方向に行っても壁にぶつかります。もしこの迷路に出口がなかったらどうなるでしょうか? やがて疲れ果てて倒れてしまうでしょう。人間の生き方というのは、出口のない迷路のなかですごく勇気をもって頑張っているようなものです。頑張ってはいますが、そもそも出口がありませんから、途中で力尽きて倒れてしまうのです。

 そこで、だいたいの人はこの出口のない迷路のなかで「怠けてはいけません。何か探しましょう」と必死に頑張っています。他方、全然頑張ろうとしない人もいるのです。迷路に入ると、こちらに行っても壁があり、あちらに行っても壁があり、どこへ行っても壁にぶつかります。それで「いいや、どこにも行かずにここで座っていよう」と探検をやめ、その場で横になって寝るのです。さて、どちらが優れていると言えるでしょうか? この状況をどのように評価すればよいのでしょうか? 何もしないで怠けて寝ているよりは頑張ったほうがいいのではないか、と言えないわけでもありませんが、だからといって必死に頑張っても、結局何も得ることはできません。頑張った人は疲れ果てて死にますし、何もしない人は何もしないで横になったまま死にます。そうすると、何もしない人のほうが楽をしたぶん儲かったのではないか、と考えることもできるでしょう。逆に、頑張った人は怠けずにとにかくチャレンジしたからすごい、とも言えるでしょう。しかし、どちらにしても結局二人とも途中で死ぬのです。出口がないのだから。

 サラリーマンで毎月そこそこの給料をもらい、同僚の女性と結婚して、子供を二人くらい育て、定年まで働き、一生のうちそれほど光が当たることなく年をとって死んでしまう、そういう人生を送る人もいますし、他方、英雄的な人生を送る人もいます。その人が死ぬと周りの人たちは「すごい人でした」と派手な葬儀をして、銅像をつくったり、伝記を書いたりします。そこで、お釈迦さまがおっしゃるのは、二人は「何を得て死にますか?」ということです。

億万長者の人生・ホームレスの人生

 ろくに勉強もせず、まじめに仕事もせず、家族に見捨てられ、どうすることもできずにホームレスとしての人生を過ごす人もいれば、子供のころ貧しい家庭で育ったけれど頑張って勉強し、世界中に会社をつくり、億万長者になったという人もいます。では、贅沢をしている億万長者と、賞味期限の切れた弁当を拾って食べているホームレスと、どっちが立派だと言えるでしょうか? 億万長者はホームレスに「あなたの人生は失敗だ」と言えるでしょうか? 言えないのです。結局、二人とも同じなのです。何も得ることなく死んでしまうのです。

 億万長者は、若いときからじっとしていられず懸命に働いて億万長者になりました。その点で「すごい」という評価もできるでしょう。逆に「何をやっているんですか」という評価もできます。なぜならどんなにお金を持っていても、ブランドのスーツを十着いっぺんに着ることはできませんし、グルメ料理を一日に十回食べることもできません。高級車を数台持っていてもどうせ車に乗るときには一台にしか乗れないのです。

 そこで、ゴミ箱から食べ物を拾い、橋の下で生活しているホームレスは、こんな億万長者を見てこう考えているかもしれません。「あの人はあんなにいっぱい会社を持たなかったほうがよかったのではないか。毎日あくせく働いて、ストレスで夜もろくに眠れないようだ。毎晩、遅くまで仕事をしているから奥さんや子供たちと顔を合わせる暇もない。成功するためにどれほどのものを犠牲にしているのか」と。
 結局は、億万長者とホームレスを比べてみると、どっちが幸福かと一概に評価することはできないのです。

「人生は虚しい」という理由

 世の中では一般的に「人は頑張らなければならない。頑張れば必ずいいことがある。夢は実現する」などと言っていますが、それはほんとうでしょうか? いくら頑張っても、やっぱり虚しいのではないでしょうか。よく観察するなら「人生は無意味」ということが理解できるでしょう。なぜ無意味かといいますと、生きているときどんなに物や財産を獲得しても最後にはすべてを置いて死ななければならないのだから。ですから「人生は虚しい」というのです。

 「苦」dukkhaというのは、ほんとうは「苦しい」という意味ではなく、「虚しい」という意味です。しかし私たちは人生を「虚しい」とは思っていません。その反対で、人生は楽しくて有意義なものだと考えているのです。でも人生を鋭く観察するなら、「何をやっているのでしょうか」と聞きたくもなります。結局は虚しいのです。

 フンコロガシという虫がいます。生まれたときからフンを、だいたい動物のフンですが、牛のフンや馬のフンを集めて、フンの玉をひたすら転がし続け、やがて死んでしまうのです。それでフンコロガシに、「あなたは毎日、忙しく働いていますね。休む暇もなく頑張っています。生まれてから死ぬまで何をやったのでしょうか?」と聞くと、フンコロガシは威張って「私はフンの玉を作りました」と自慢するでしょう。

 人間もフンコロガシと同じです。何を頑張ったのでしょうかと聞くと、「私はこういう会社を作りました」「こういう地位を獲得しました」「こういう賞をとりました」と自慢するのです。モハメドアリに「あなたは人生で何を得たのでしょうか?」と聞いたら、「自分はボクシングの元世界チャンピオンで、現役時代にはたくさんの世界タイトルを獲得しました」と誇って言うでしょう。それで「サインをください」とお願いすると、できないのです。今はパーキンソン病をわずらっているため手が震えますから、サインができないのです。でも、彼が世界チャンピオンになったことが悪いかというと、並外れた努力をして頑張ったのだからそうは言いにくいし、だからといって「人生で何を得たのか」と考えると、何も得ていないのです。元アメリカ大統領のレーガンさんにしても、むかしは光輝く大統領でしたが、職を退いたあとはアルツハイマー病をわずらって亡くなりました。ですから亡くなる瞬間、レーガンさんにとって大統領でいたことは、どのようにプラスになったのでしょうか? おそらく自分の名前もわからない状態になって亡くなったと思います。

 世の中をちょっと冷静に残酷に見なくてはならないのです。そうすると、どちらにしても同じ(人生は虚しい)ということが見えてくるでしょう。ミミズがいますね。ミミズは土の中に穴を掘って、入って、動いて、穴から出て、葉っぱを一枚とって土の中に引っぱり、それを食べてフンを出します。またちょっと先に進んで、葉っぱを食べてフンを出し……。そうやって一生を過ごし、途中で死ぬのです。そのミミズと、人間の一生とではどこが違うのでしょうか? 私たちは人間のほうが偉いに決まっていると思うかもしれません。ほんとうにそう言えるでしょうか。よく見ると、ミミズはすばらしい仕事をしているのです。土の中のあちこちに穴を掘ったり動いたりすることによって土の中の通気がよくなりますし、葉っぱを食べてフンを出すことによって土が生き、その土のおかけで植物が立派に育つのです。ミミズは植物を守る大切な役割を果たしているのです。このようなすばらしい仕事、人間にできるでしょうか。

(次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/編集;出村佳子)

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