根本仏教講義
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27.なぜ苦は偉大なる真理なのか
(4)無価値を知って「楽」に生きる
A・スマナサーラ長老

 仏教が説く「苦」dukkhaは、「苦しい」というより、「空しい」という意味です。私たちは人生を「空しい」と思っていません。むしろその反対で、人生は楽しくて喜びがいっぱいあると考えているのです。でもよく観察してみると、「何をやっているのでしょうか」と聞きたくなるほど結果は空しいものなのです。
(前号から続きます)

 私たちはどんなに頑張っても、どんなに努力しても、どんなに踏ん張っても、最後には「死」という苦しみ・空しさに出会わなくてはならなりません。これは客観的な事実であり、自分だけ例外ということはないのです。「苦」というのはそういう意味です。恋人にふられたから苦しいとか、上司に怒鳴られたからくやしいとか、地震で家が壊れたから悲しいとか、そういう類のものではありません。なぜそういうものがお釈迦さまのおっしゃる「苦しみ」ではないかといいますと、普遍的な真理ではないからです。恋人にふられたから苦しいというのはその人だけのことであって、すべての生命に共通していることではありません。会社が倒産することも、親子関係がうまくいかないことも、そうしたことは特定の人にかぎられた問題であって、すべての生命に共通する苦しみではないのです。

幸せも苦しみも脆いもの

 このように私たちが考えている「苦しみ」というものは、お釈迦さまから見ればたいした苦しみではありません。また、私たちが考えている「幸せ」も、たいした幸せではないのです。赤ちゃんが笑っただけでも、すごく幸せを感じるでしょう。そのレベルです。奥さんと喧嘩して長いあいだ口をきいていない旦那が、仲直りしようと宝石店で指輪を買い、それを奥さんの見えるところにちょっと置いておきました。その指輪を見つけた奥さんはとても喜んで「やっぱりあなたっていい人ね」とニコッと笑ったら、それだけでこの夫婦は、これまでの苦しみが全部消えるでしょう。逆に、結婚してからずっと仲が良くても、ほんの些細なことがきっかけで、その間柄は壊れてしまいます。苦しみも幸せも脆いものなのです。

 私たちは病気になると、すごく不安になって心配します。もし家族の誰かが亡くなったら、もう納得できなくて、我慢できないほどの苦しみを味わうでしょう。しかし、その苦しみは固定したまま永遠に続くのでしょうか? 続かないのです。そのときは耐えがたいほど悲しくても、悲しみは徐々に癒え、年月とともに少しずつ忘れ去ってゆくのです。

 このように、私たちが考えている「幸せ」も「不幸」もたいしたものではありません。シャボン玉のように、すぐにはじけて消えるものなのです。シャボン玉を見て「きれい」と思った瞬間、もうそのシャボン玉は消えているでしょう。これが「生きる」ということなのです。

 お釈迦さまは「生きるとはどういうことか」を研究し、「普遍的な定義」を発見しました。その定義は、人間にも神々にも動物にも、どんな生命にも共通する普遍的な真理です。

 すべての生命にとって普遍的な真理とは、生まれて、成長し、年をとって死ぬ、ということです。ミミズも、フンコロガシも、人間も、神々も、すべて同じなのです。すべての生命が、生まれて、年をとり、死ぬのです。その価値を、お釈迦さまは「存在は苦である」とおっしゃいました。つまり「空しい」ということです。
 このことを少しでも理解しておけば、私たちは今よりもずっと楽に生きることができるでしょう。

なんで自分だけこんな目に……

 日常生活ではさまざまな問題が起こってきます。ときどき一つの問題を解決するのに命までかける人もいるようです。でも、そこまで頑張る必要はありません。問題というものは本来単純なものなのです。家庭の問題も、教育の問題も、会社の問題も、政治の問題も、すべて単純なもので、命をかける必要などありません。ではなぜそこまで必死に頑張るのかといいますと、「人生は空しい」ということを理解していないからです。「空しい」ということがわかれば、ものごとにそれほどしがみつく必要もなくなるでしょうし、不平不満を言うこともなくなるでしょう。たとえばお医者さんに「末期癌です」と告知されたら、ほとんどの人は「なんで自分だけがこんな目に……」と怒ったり、落ち込んだり、苦しんだりするのではないでしょうか。この「なんで自分だけが……」と考えることが不幸中の不幸なのです。「自分だけが不幸」ということは成り立ちません。なぜなら癌であろうかなかろうか、すべての人の結末はみな同じ「死」なのですから。

末期癌は不幸か?

 「人生は空しい」「人間は死ぬものである」ということが理解できれば、人生は楽になります。自分が末期癌だと告知されたら、腹を立てずに「あ、そうですか、わかりました」「あとどれくらい生きられますか」と、それだけで終わればよいのです。悩んだり惨めになったり絶望したりせず、気持ちを切り替えて、残された人生を明るく心穏やかに過ごすよう努力すればよいのです。

 世の中では、争いや対立が一向になくなりません。人々は互いに競争しあい、戦い、きばを出して「負けてたまるか」とやりあっています。なぜ戦うのかといいますと、それは「人生は空しい」という真理を理解してないからです。「人生は空しい」ということを理解している人は、争ったり、他人を傷つけることがありません。そういう煩わしさから離れているのです。これは並の「楽」ではありません。ですから「苦」(dukkha)を知ることこそ、心に巨大な楽と安らぎをもたらすのです。

「自分は尊い」という魔の言葉

 それからもう一つ私たちが認めていない「ドゥッカ」の側面があります。生きているかぎり誰にでも苦しみやストレスがあります。なぜ苦しむかといいますと、それは生きることに価値を入れているからです。その証拠に、私たちは「生きることは尊い」と思っているのではないでしょうか。「尊い」ということはつまり「自分に価値を入れている」ということです。自分に価値を入れれば、ほかの何を差しおいてでも、どんな手段を使ってでも、自分が生き延びようとします。そこから奪い合いや争い、戦争などが生まれてくるのです。

 それから「自分は尊い」と思っていると、不幸に遭ったとき、「なんで自分だけこんな目に遭うのか」「こんなに頑張っているのになんでうまくいかないのか」「なんで失敗するのか」と考えて、そこから苦しみが生まれてきます。成功しているときでさえ、ストレスがかかるのです。たとえ会社の経営がうまくいっていても「もっと頑張らなくては。新しいアイデアを出さなくては。赤字を出してはいけない。会社を守らなくては」など、あれこれ考えて苦しんでいるのです。

 このように、「自分」に価値を入れると、「自分は尊い。死ぬのはいやだ。死にたくない」という気持ちが生まれてきます。そう考えたとたん、とてつもない苦しみやストレスが現われるのです。

人生は短い

 では、人生は空しくて苦しいものだからといって、自暴自棄になり、自殺をしたり、やけ酒を飲んで、自分のやりたい放題のことをして人生を過ごしてもいいのでしょうか?

 仏教では、自殺行為や堕落行為は一切認めていません。仏教が教えているのは、「生命は死にたくなくても必ず死にます。その事実をよく確認してください」ということです。「死ぬのはいやだ」ではなく、「私は必ず死にます」と確認することです。必ず死にますから、穏やかな心で生きていましょうと。感情的にならずに、嫉妬や憎しみ、苦しみ、競争心を持たずに生きましょうと。一瞬でも苦しむ必要はありません。私たちの人生はほんとうに短いのです。だったらその短いあいだで人と仲良くし、楽しく、気楽に過ごせばいいでしょう。でも私たちは「自分は死なない」と考えているから、人と喧嘩しても、人に迷惑をかけても、へっちゃらなのです。ときどき二十年でも三十年でも恨みや憎しみを持ち続けている人もいるでしょう。そういう人の人生は苦しみのかたまりなのです。

(次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/編集;出村佳子)

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