根本仏教講義
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27.なぜ苦は偉大なる真理なのか
(5)生きることは穴だらけ
A・スマナサーラ長老

 人生に価値を入れること、これがあらゆる苦しみをもたらします。そこで、その逆の「価値がない」ことをパーリ語では「dukkha」と言います。これは単なる机上の概念ではありません。お釈迦さまが自ら修行した結果、発見なされた偉大なる真理なのです。お釈迦さまは悟りを開いたとき、堂々とおっしゃいました。「私は徹底的に修行し、研究したところ、一切のものごとは無意味で価値がないものであることを発見しました」と。

 水を切るために使う「ザル」がありますね。大きなザルを川に入れると、ザルのなかに水がいっぱい入ってきます。そのザルを川の上に持ち上げるとどうなるでしょうか? ザルの網目から水がザーッと流れ落ち、軽々と持ち上げることができるでしょう。

 私たちも「人生という巨大なザル」を持っています。でもそのザルは川に沈んだまま。持ち上げたいのですが「重すぎて持ち上げられない」と考えて、持ち上げることができずにいるのです。そこで、ただ上に持ち上げてみてください。そうすると、ザルの穴から水がザーッと流れ落ち、ザルが軽くなるでしょう。「生きる」ということは穴だらけです。何ひとつ、すくいあげることはできません。それゆえ、すべてのものが無意味だというのです。このことが分かった瞬間、お釈迦さまの心から「煩悩」が全部落ちてしまったのです。

du」と「kha」―― たいしたことがない

 私たちは非論理的で、ものごとにたいして余計な価値を入れているため、たいへん苦しんでいます。しかし真理の立場から見ますと、この「苦しい」ということも余計なことなのです。私たちの苦しみ ―― 欲しいものが得られないこと、親しい人と別れること、嫌な人に会うこと、病気になること、老いること、死ぬことなどは自然の現象であり、本来たいした苦しみではありません。でも、なぜそうしたものが苦しみになるのかといいますと、それは私たちが「自分」というものに強烈に執着しているからです。執着しているために苦しみが増大し、空気のように気楽に動くことができなくなっているのです。

 dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。分かりやすく言いますと、日本語に「石」という語があります。この「石」の前に「小」という語をつけると、「小石」となります。小石というと、大きな石でもなく、きれいな石でもなく、どちらかといえば小さい石とか、たいしたことのない石、が思い浮かぶでしょう。「小」という漢字には「小さい」という意味もありますが、ほかにも「たいしたことがない・あまり価値がない・重要さの程度が少ない」いう意味もあるのです。

 また「川」という語の場合なら、その前に「小」をつけると「小川」となり、意味は「たいした川ではない」となります。

 このように、名詞の前に「小」という字をつけるだけで「そんなに大事なものではない」という意味になるのです。同様に「dukkha」も、「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「」で、からっぽという意味です。

「価値がない」ということ

 「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。この世の中にそんなに気にするものがあるでしょうか? 見つかるでしょうか? 何も見つからないのです。このことが分かれば分かるほど、心に喜びや安らぎが生まれ、気楽になるでしょう。

なぜ「価値がない」のか?

 仏教の専門用語に、サンカーラ(sankhâra)という語があります。古い日本語で「行」と訳されていますが、そう言っても分かりにくいでしょうから、私は「現象」という語を使っています。

 お釈迦さまは「一切の現象は苦である」とおっしゃいました。「現象」とはなんでしょうか? 現象とは、成り立っているもの、組み立てられたものという意味です。たとえば「マイクが在ります」といっても、マイクは「在る」のではなく、現象です。なぜ現象かといいますと、プラスティックや金属など、さまざまな部品が組み合わさってできているからです。個々の部品がそれぞれのはたらきをして、組み立てられているのです。組み立てたから、現象が成り立っています。そして私たちはその組み立てたものに「マイク」と名づけているのです。ですからマイクは現象であって、マイクに固体や実体があるわけではありません。ただ組み立てた結果、一時的に成り立っているだけなのです。

 車には、たくさんの種類の部品があります。その一つ一つを見て「これは車だ」と言えるでしょうか? たとえばハンドルを見て「これが車です」と言うことができますか? できません。タイヤは車でしょうか? ハンドルは車でしょうか? 窓ガラスは車でしょうか? どれも「車」ではありません。でもこうした一つ一つの部品を集めて組み立てると、「車」と呼ばれるものが成り立つのです。この組み立てられて成り立っているものを「現象」と言います。もともと「車」という実体など存在しませんし、組み立てたところで一時的に「車」という現象が存在しているのです。

 「サンカーラ」という言葉は、仏教の命です。この世の中に、組み立てられていないものは何一つありません。「この部屋は立派な部屋です」といっても、それはいろいろな部品を集めて、組み立てられているにすぎません。組み立てたところで、立派な部屋が現象として一時的に成り立っているのです。

 すべてのものが現象です。マイクも、車も、服も、部屋も、すべてのものが現象なのです。また、それらのものを成り立たせている一つ一つの部品も現象です。服なら、それを編んでいる一本一本の糸も現象です。このように、どこまで見ても現象で、実体は見つからないのです。

現象の特徴

 現象は長持ちしません。シャボン玉のように、すぐに壊れてしまうものです。シャボン玉はとてもきれいですが、ちょっとしたことで、すぐに割れてしまいます。温度が変わったり、チリやホコリに触れただけで、パッとはじけます。シャボン玉は在るのではなく、すぐにはじけて消える一時的な現象なのです。

 心と身体も一時的な現象にすぎません。今楽しいと思っても、条件が変わった瞬間、つまらなくなります。では一生つまらないかというと、そうではありません。ちょっとしたことで、また違う気持ちになるのです。この部屋は「暖かくて気持ちいい」と思っていても、外に出たら「寒い」と感じるでしょう。「暖かい―気持ちいい」「寒い―気持ち悪い」となるのです。家でくつろいでいるときは気持ちよくいますが、外へ出ると嫌な気持ちになり、バス停でバスを待っているときはさらにイライラし、でもバスが来ていすに座った瞬間、ほっとします。このように、心はその時その時の条件で変わるものなのです。

寿命

 心も身体もすべてのものが現象です。現象がどのくらい持続するかといいますと、身体はとても早く壊れていきます。私たちは一日三回ごはんを食べているでしょう。これは、身体が激しく壊れている証拠です。身体は一見、丈夫そうに見えますが、ほんとうはガラガラと壊れる弱いものであり、食べないと維持できないものなのです。ですから絶えず物質(栄養)を補給しなければなりません。呼吸もそうです。常に呼吸をしていなければ、私たちは生きていられません。このように身体はすごく激しく壊れてゆくものなのです。

 心も現象です。「怒った」という場合、それは現象であり、何か原因や条件がなかったら、怒ることはありません。「楽しい」という場合も、原因や条件がなかったら、楽しくはないのです。ですから怒ることも楽しいということも現象です。「考える」ことも現象です。何もなかったら考えませんし、何かがあって一時的に現象として現われているのです。

 このように、心も身体も現象です。考えることも現象です。ことごとくすべてのものが現象なのです。現象ということは、結局、何もないということです。現象は変化します。変化するからこそ「苦」(dukkha)であり、そこに実体はないのです。

(次号に続きます)

(スマナサーラ師講義より構成しました/編集;出村佳子)

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