根本仏教講義
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27.なぜ苦は偉大なる真理なのか
(6)何を体得すれば「苦」がなくなるか?(最終回)
A・スマナサーラ長老

    Yad aniccam tam dukkham ti.
    無常なるものは苦である

 お釈迦さまがおっしゃる「dukkha」というのは、言い換えますと、「すべてのものは変化して、止まっていない」という意味です。これは偉大なる真理です。なぜ真理かといいますと、誰にも「違う」と否定することができないからです。

 しかし私たちは、心が無明で覆われているために「ものごとは止まっている」と勘違いしています。たとえば、皆さんの家庭や会社にある蛍光灯のスイッチを入れてみてください。光が点いたとき、「光がある」と言えるでしょうか? おそらくほとんどの方は「はい、あります」と答えるでしょう。でも、その答えはちょっとへんです。光というものは、プラスとマイナスの電気の交流で、絶えず光ったり消えたりの生滅変化を繰り返しながら流れつづけているのであり、けっして光った状態のまま停止しているのではありません。けれども、私たちの目には光が固定的に停止しているように見えます。それゆえ「光がある」と錯覚するのです。

 たとえば、音楽を聞いているとしましょう。私たちは「きれいな音だ」「音楽がある」などと思うかもしれません。でも「音楽がある」ということは、瞬間瞬間、音が出て、消える、ということです。出た音の一つ一つは、その瞬間その瞬間で消滅します。もし一つの音が消滅せずにずっと「ある」なら、次の音を出すことは永久的にできないでしょう。音は、生まれたら、必ず消えます。生まれて、消えて、生まれて、消えて、生まれて、消えて……。この一連の流れに、私たちは「音楽がある」「歌が聞こえる」と言っているのです。

 このように、生滅変化するがゆえ、ものごとは成り立っていますし、生命も存在しています。「存在=無常」であり「ある=無常」なのです。

身体の痛みと心の病

 しかし私たちは「無常」という真理を理解していません。分かったふりをしていますが、ほんとうは分かっていないのです。
 そこで、無常の真理を理解せず、それを知らずに生きているとどうなるでしょうか? 

 病気になったとき、私たちは悩んだり落ち込んだり苦しんだりします。でも、真理の立場から見ますと、「病気」という身体の現象と「苦しい」という心の感情は、別のものなのです。ほんとうは、病気になったら身体が痛い、それだけです。お釈迦さまも病気になったとき、ご自分の身体はとても痛かったといわれています。でも身体が痛いだけであって、悩んだり苦しんだり、心まで病むことはありませんでした。一方、私たちはどうかといいますと、病気になったら「苦しい、あーいやだ、なんとかしてほしい……」と悩んだり、落ち込んだり。周りの人たちにも不平不満をぶつけたりします。この不平不満がさらに病気を悪化させ、心を苦しめるのです。

「〜はずがない」という妄想

 なぜ不平不満が生じるのかといいますと、それは、もともと心のなかに「自分は病気になるはずがない」とか「病気になりたくない」などという気持ちがあったからです。

 お金がなくなったら悲しいでしょう。なぜでしょうか? お金がなくなるはずがない、と思っていたからです。家に泥棒が入ると、なぜあわてて警察に行くのでしょうか? お金を盗まれると、なぜ腹が立つのでしょうか? 盗まれるはずがない、と思っていたからです。この「はずがない」というのが、心に大きな苦しみをつくっています。この世の中に「はずがない」ということはありません。無常の世界ですから「なんでもあり」なのです。朝から晩まで働き、ローンをくんで一軒家を建てたとしても、やがてその家は古くなって壊れます。壊れたとき、悲しくなったり苦しくなったりするならば、それは「壊れない」と、勝手に思い込んでいたのです。

 親しい人が亡くなっても、それは不自然なことではありません。なぜ悲しくなるかといいますと、それは「死ぬはずがない、死ぬべきではない、死んでほしくない」と思っていたからです。たとえば、九十歳のおじいさんが亡くなったとき、数日間や数週間くらいは悲しいかもしれません。でも、その悲しみはだいたいすぐに癒えるものです。なぜかといいますと、おじいさんの場合はそれほどきつく「絶対死なない」と思っていなかったからです。百歳くらいまで長生きしてほしいという気持ちはありましたが九十歳で亡くなりました。だから悲しい。でもおじいさんは充分長生きしてくれたし、寿命をまっとうしました、などと考えますから、悲しみはそれほど大きくならないのです。

 では、自分の愛する子供を亡くしたときはどうでしょうか? 頭が狂うほど悲しくなるのです。なぜかといいますと「死ぬはずがない」と思っていたからです。

 無常は、世の中の普遍的な真理です。この真理を認めずにそれに逆らうことから、ものすごくきつい悲しみが生まれてくるのです。

割れない風船、見たことがありますか?

 無常は、すばらしい偉大なる真理です。でも、私たちは、無常を理解しようとしません。それよりも、科学や物理を研究するほうが大事だし、そのほうが社会が発展する、と考えているようです。一つ皆さんにおたずねしますが、アインシュタインの相対性理論と、お釈迦さまの無常論と、どちらが価値があると思いますか? 皆さんは、アインシュタインはすごいことを発見したと思っているでしょう。たしかに一般の人にはとうてい発見することができない科学的発見を成しました。でもよく考えてください。相対性理論を勉強して、人の苦しみがなくなるでしょうか? 心は清らかになるでしょうか?

 二人の子供が、「こいつがぼくの風船を割った」と言って喧嘩しているとしましょう。科学の知識を使って、この二人の子供の喧嘩をやめさせることはできるでしょうか? できないのです。科学の知識は、人間の心の問題に関して、なんの役にも立たないのです。

 他方、無常を理解している人なら、「あのね、風船というものはこの子が割らなくても割れてしまいますよ。風船は割れるようにできているんだからね。きみ、割れない風船、見たことがありますか?」と智慧を使って話すでしょう。そう言われると子供は泣くのをやめ、喧嘩もやめると思います。このように「無常」ということが、人生における問題に、常に答えを出してくれるのです。

迷路を脱出する

 無常という真理を知ったから、お釈迦さまの心から無明と一切の煩悩が消えました。一切の欲しがる気持ちがなくなって、あれが知りたい、これが知りたい、あれがやりたい、これがやりたい、という限りなく走りまわることがなくなったのです。お釈迦さまも、私たちと同じように、出口のない迷路のなかにいました。しかし、お釈迦さまはあちこちに走りまわるような愚かなことはしなかったのです。その代わりに、こう考えました。迷路の出口を見つけようと走りまわっても意味がありません。何もしないで寝ていても意味がありません。では、この壁をのぼってみましょうと。壁をのぼってみたら、それが出口。迷路から脱出できたのです。それが答えだったのです。

 答えとは、「苦」(dukkha)・「無常」(anicca)・「無我」(anatta)の発見です。世の中は、無常であるがゆえに苦(無意味)であり、そこに実体や永遠不滅のものはない、という発見です。

 真理を知れば、人生の問題に答えが出ます。真理を知ることによって、生きる目的が手に入るのです。それがないかぎり、輪廻のなかで永久的に走りまわり、永遠にゴールに達することはできないでしょう。ですから、存在のゴールに達するためには、智慧を育て、真理を観る眼を養い、真理を理解し、実感し、それを体得する必要があるのです。
(了)

(スマナサーラ師講義より構成しました/編集;出村佳子)

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