根本仏教講義
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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3.祈り・感謝
(2)人は何のために祈るのか
A・スマナサーラ長老

 昔から人は病気を怖がってきました。一番怖がったのは「死ぬこと」で、誰が怖がったかというとそれは死ななかった人でした。人が死に、自分も家族も誰もが死ぬことを知り、死に対する儀式儀礼が発達してきました。国や民族によって違いますが、死に対する儀式儀礼のない人種はありません。どんな文明でも、アフリカやインドネシアの森のなかでどんなに原始的な生活をしている人たちでも、死に対する儀式儀礼だけはあるのです。なぜなら「死ぬ」ということが過去から一番怖かったからであり、怖かったからこそそのなかに色々な哲学が生まれてきたのです。たとえば、死ねば天国に生まれ変わりますからと誰かが言う。そうか、それなら死んでも別に惜しくはないのだと納得する。だけど善人も悪人も区別なく行くと言われればどうも納得いかないものがある。そこで天国に行く人と行けない人を分けて、天国に行く方法という哲学が生まれてくるのです。

 でも、今日一日生きているだけで精一杯だと思う人は、そういう話には無関心ですよね。天国でも地獄でもそんなことどうでもいい、それどころじゃないんです。ですから、我々の心を見ると、なぜ宗教が生まれるかがわかります。「死ぬのが怖い」と思ったらその瞬間、そこに宗教という幽霊がうろついているのです。宗教の歴史は私たちの心の中に何千年の昔から記憶されているわけですからあっと言う間に出てくるのです。日頃まったく関係ないと思っていても、何かのきっかけでその過去の記憶が出てきたら、すぐ現れてきます。私は無宗教で宗教とはまったく関係ないんだ、という人がいたとしてもまずそんなことはありません。たとえばもしお医者様に「あなた、肝臓がもうだめですよ。まったく治りません。せいぜい2週間も生きられたらよいところでしょう」と言われたら、すぐに神様仏様が生まれてくるのです。

 何度も申し上げるように宗教には「恐怖」がもとにあります。でも人間、いつも怖いわけではなく、ああ幸福だ、恵まれていると感じるときもあるわけです。恐怖があるからこそそれから逃れられた感謝もひとしおなのです。でも概ね人生は「大変」なことに追われ続けています。そうお思いになりませんか。あれをやらなくちゃならない、これをやらなくちゃならない、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと心配は絶えません。スーパーに行って果物ひとつ買うときも、10個くらい手にとって押えてみたりしてひとつ選んだり、牛乳でも肉でも一番うしろの取りにくいところから引っ張って取る。お店の方でもそれを見通してうしろの方に古いものを置くんだそうです。ある日並べているところに居合わせると、古いものは奥に置いている、それを見てまた奥さんは、奥の方から取るのをやめる…。みんな、同じ人間ですから考えることはおんなじなんです。

 お店ではそんなに悪いものを売っているわけではありません。悪いものを売っていたのでは商売だめになっちゃいますからそんなことはしないんです。ちょっと色や形が悪いとか日付が一日違うくらいで必死になって選り分けることはないんじゃないでしょうか。

 そんなことまで考えて心配してまったく、人間として生きるのは楽なことじゃありません。たった買物ひとつでも、いいものを選ばなきゃならない、家族に合うものを選ばなきゃならない、財布に合うものを選ばなきゃならない、…心配事だらけです。幸福で幸福で、お金にまったく執着なく値段はいくらでも買いますよ、と余裕で言えるような人間はほとんどありません。たまに誰かが死にかけてるからいくらでもいいから売ってくれというようなことはあるでしょうが、そのときは幸せでそう言っているわけではありません。我々の人生のなかで幸福ということももちろんありますが、やはり全体としては大変だという経験の人が多いですから、無事に守られますようにと神にお祈りするのです。たまに感謝もします。

 では仏教の観点から、この「お祈り」や「感謝」を見てみるとどうでしょうか。仏教は中道ですから人間が何を拝んでもかまわないのです。人が何かを拝んで心の苦しみをいくらか和らげることができるなら、それを否定する必要はありません。その点から見ると何を拝もうとかまわないのです。山でも川でも、拝みたければ拝めばいいし、犬でも猫でも拝めばいい。もし心配事があっても悩むことがなく、拝みたくないと思えば拝まなければいい、という無関心な立場なんです。

 神様、イエス様にお祈りしてお願いする人々、阿弥陀さまにお祈りする人々、ヒンズーの神々にお願いする人々、みんな色々な相手に向かってお祈りしていますが、結果はどうですか。ちょっと考えてみればわかるでしょう。別にキリスト教の神を拝んでいるからといって特別に幸福になっているわけではないし、全然お祈りしない日本人もアメリカ人も経済的に豊かになっているし、アメリカよりは日本の方が平和であるし、じゃあ日本の方が、仏様の方が偉いんですかといってもそうじゃない、日本にも災難がたくさんあるし、また、韓国やアジアの国でも、お釈迦さまを拝んでいる国はあるけれど、また状況は違うわけです。拝む対象がなんであっても心はいくらかは安らげられるのであって、何を拝んだって同じことなんだ、というのがテーラワーダ仏教の考え方なのです。人間は平等に、いいことも悪いこともあって、みんながんばって生きている、だから「あなたががんばれば幸福になりますよ」というのが仏教なのです。仏教の立場では、どんな宗教も否定しません。しかし、がんばらなくていい、お祈りさえすれば、とは言えない。つまりお祈りも必要だし頑張りも必要なのです。

 では、お祈りはカットしてがんばる方だけやるとどうなるのでしょう。それでも豊かになるのだとすれば、お祈りは余計なことになっちゃいますね。ですから仏教の立場からいえば、誰が何をお祈りしようと腹を立てることもないし、また人にこうした方がいいという推薦もできない、日本人は日本人なりのことを、アメリカ人はアメリカ人なりのことをお祈りすればいいし、しなくてもいい。それは文明の歴史のなかで心に擦り込まれてきたことですから、それをああだこうだ言う必要はないのです。誰も偉くも低くもないのですから気持ちよくやればいいんです。

 お祈りの立場から考えると、誰であろうと自分が幸福でありたいんだけど、いくら祈ってみてもみんなが幸福になれるわけではないのです。誰も病気にはなりたくないでしょうが、いくらお祈りしても病気にはなるんですよ。お祈りが、効いたと思えるときも効かないと思えるときもありますが、効いたと思ったとしてもお祈りのせいとは言いきれない。歴史の初めから今まではっきりした証拠などはないのです。たとえば人が病気になって、関係ある人たちがみんなずっとお祈りをし続けて病気が治ったとします。それでも同じ頃に別の人が、家族さえ誰もお祈りしていないのに治るケースがあるわけですから、お祈りの効果があるのかどうかなんて答えが出せない、必ず効果があるなんて言えないんです。心の働き、物質の働き、宇宙の法則、と様々な働きが絡まりあってのことですから、そしてそのすべてはまだ科学でもわかっていませんからね。

 お釈迦さまがおっしゃっているのは、人間はその心の法則がわからないゆえに、また物質や宇宙の法則がわからないがゆえにあっちこっち暗闇のなかであれに触ったりこれやったり色々試しているだけなのだということです。心や物質や宇宙の法則、全部がわかったとしたら、どうやれば幸福になるか、不幸になるか、そのシステムがわかってくるはずです。つまり、我々は、なぜ人間が幸福になるのか不幸になるのかという、心のシステムがわかっていない。なぜあの人は長生きであの人は早く死ぬのか、その物質的な働きのシステムがわかっていない。

 そして一方、どんどん科学の世界でわかってくると、その分宗教から解放されていきます。細菌や微生物のせいで病気になることを発見したら、もう全然神様のところへは行かずにお医者様のところへ行く。昔は神様のところへ行ったのにです。ですから法則がわかってくると神様の仕事はだんだん減ってくる、ということは法則が完全に分かったら神は地上に要らない。ですから宗教は、ずっと科学と戦ってきたんです。新しいものが発見されると最初は宗教が反対するんだけれど、みんなが正しいものだと認めるようになるからしぶしぶ自分の解釈を変える、そういうふうにお互い生き延びる選択をしてきたんです。今も現代人の考え方のなかに宗教的な観念が色々入っていますね。離婚に反対、輸血に反対、あれに反対、と別に合理的な理由があるわけじゃないんです。

 仏教で言うのは、きちんと法則を全部理解しましょう、そうでなければ客観的なことが理解できません、ということです。ですが、宇宙の法則全てを理解しましょうというのはちょっと無理がありますから、最低自分に関するもの、自分の「からだ」と「心」の動き、そのシステムくらいは理解しよう。そこまで理解してはじめて迷信的な宗教から卒業できる、解放されるというわけです。そこまでさえ知らない間は人間は、神様仏様のお世話になり続けることと思います。

 もうひとつ別の視点から「宗教」に問いを投げかけてみましょう。もし、尊い存在がいて我々を支配しているならば、なぜ人間や生命に不幸なことばかり起るのでしょうか。毎日お祈りしてもトラブルは多発します。いくらお金があっても夫婦関係は悪くなるし、夫婦仲が良くても子供が悪い道に走るし、家族は良くても会社ではトラブルを起こすし、どこかにトラブルはあるのです。トラブルのない人生なんてありえません。ですから神様は一体全体何をやっているんでしょうかと聞きたくなります。はっきりいうと「神」という概念を使うのは良くない、神の方も迷惑なんです。

 では、何に向かってお祈りすればよいのかということです。それは、もし自分が誰かのおかげで幸福になったのなら、また何かのシステムのおかげで今日はラッキーだったというなら、その人、そのシステムに感謝すべきなのです。いわゆる「感謝」というものはとても大切なものでそれを否定はしません。しかし関係もない知らない人に感謝しても何の意味もありません。たとえば自分が顔も見たことのない人がさっと来て、色々お世話になりましてありがとうございましたと言っても何か勘違いしてるんじゃないか、ちょっと変な人だな、と思っちゃいますよね。逆効果ですよね。

皆様でも知らない誰かに感謝してると、ちょっとおかしいんじゃないかな、ということになるはずです。たとえば神様は人間に何もやってあげていない、人間は自分でがんばってやってるのにお祈りされても、私は何もしてないのに人間って変だねえ、ということになります。自分で朝から晩まで苦労して苦労して食事の用意をしても「天にましますお父さま、今日の食事を感謝します」ときては、神様も困ってしまいます。

 仏教の立場は我々は色んな人のお蔭で幸福になることはあるというもの。そういうときは確実にその人に感謝しようというものなのです。(以下次号)

(スマナサーラ師講義より構成しました)

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