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28.希望と欲望
(7) 最終回 不満の理解が心を向上させる
A・スマナサーラ長老    

 仏教が教えている正しい希望とは、具体的で合理的な実行できる希望を持ち、それを達成できるよう、日々努力することをいいます。人間のいちばん悪いところは、心です。心が汚れていて、考え方が正しくないから、私たちはいつでも失敗するのです。ですから常に正しくものごとを考え、正しく判断できるよう、自分の思考を直すこと、言い換えれば、欲や怒り、嫉妬、怠けなどの悪い感情をなくしていくこと、これを目的にして努力することが、正しい希望なのです。

 同時に「より立派な人間になろう」という目的を持つようにしてください。このままでいいと思うのではなく、「今の私の状態は不満です。ほんの少しでもいいから昨日より良くなるように努力しよう」と、ポジティブな目的を持つのです。この点に関しては不満でもかまいません。そこで、今の不満がなくなったら、また次の不満が生まれてくるでしょうから、そのときはまた「もう少し良くなろう」と頑張るのです。このようにして不満をずっと感じ、観察してみてください。不満を理解することによって、「より良くなろう」という希望と精進が生まれてきます。ですから不満は希望であるとも言えるのです。

 仏教は、不満をなくすことを教えていますが、だからといって、不満が悪いと言っているわけではありません。不満を理解することによって、人は成長することができるのです。不満、これをパーリ語でDukkha(ドゥッカ)と言います。Dukkhaは私たちが解脱するまで付いてくるものです。このDukkhaを理解することによって、私たちの心は成長し、進化することができるのです。そこで仏教では、徹底的にあらゆる面から不満を理解しなさいと教えています。そうすると「その不満を何とかしなくてはいけない」という希望が生まれてくるからです。

ある経典で、お釈迦様は比丘たちにこのようにおっしゃいました。「もしどこかのお坊さんが悟りを開いたと聞いたなら、悔しくなってでも、慢心を持ってでも、自分も悟れるように精進しなさい」と。あの人にできたのになぜ私にできないか、あの人に努力できたのになぜ私に努力できないか、このように他人と比べることは慢心であり、ほんとうは悪いことなのですが、ある経典でお釈迦様は、そういう気持ちを持ってでも解脱するために頑張りなさいとおっしゃっています。これは「欲をもって欲を戒める」ということで、「自分も悟りたい」という欲を作るのです。隣のお坊さんが悟ったらすごく悔しい。「私もやるぞ」という大きな欲といいますか、希望を作って頑張るのです。

 世俗的な幸福も、同じ道です。正しい希望をもち、朝晩まじめに仕事をすれば、経済的にも社会的にも豊かになるでしょう。また「頭をしっかりさせたい」と思う人は、日々勉強しますから頭が良くなるでしょうし、反対に、自分は一流大学を卒業して卒業証書をもらったからそれでいい、と終わる人は、怠けて勉強しませんから、どんどん頭が悪くなるでしょう。私たちは常に上へ上へと向上し、それ以上、上がない頂点に達するまで日々精進し続けなければならないのです。

 正しい希望をもって心の不満を少しずつなくすように努力する人は、最終的に一切の不満をなくし、最高の幸福である解脱が得られるでしょう。

不満と希望

 最後に、不満と希望の関係について、もう少し説明を付け加えておきたいと思います。私たちは心の中で不満を感じていますが、それはあまりにも大雑把で、はっきりと「これが不満」ということは知っていません。そこで「私はこういうことが不満です」と具体的に理解するようにしてください。自分の不満は何か、何が、どう不満なのか、ということを明確に理解するのです。そうすると、それはなくせる不満か、なくせない不満か、ということが分かりますし、それが分かれば、不満を解決する道も出てきます。そうでないと、ただ「なんとなく不満……」ということで終わってしまうのです。

 そこで「なくせる不満」なら、実際なくすように努力します。といっても、その不満が消えれば、次の不満が現れて来るでしょうから、そのときはまた、次の不満を理解するようにしてください。

 「なくせない不満」なら、きっぱりとあきらめることです。私たちは夢や希望、欲望をいろいろ持っていますが、それらはあまりにも大雑把で曖昧なため、混乱しているのではないでしょうか。そこで、このときも現実的になって「自分は何になりたいか、どうなりたいか」と考えてみるのです。もし「この夢は大きすぎる。あり得ないものを考えて妄想している」ということを発見したなら、「これは自分に無理」ということがはっきり分かりますから、きれいにあきらめて落ち着くことができるのです。

 希望には二つあります。一つは、実現できる希望。これは実現できるように努力することが大切です。もう一つは、ただの夢で、とんでもない妄想から生まれた希望です。これが見つかったら、そんなことはあり得ない、不可能だ、とその場できれいに取り消してください。

 たとえば、ある十六歳の若者が歌手として大変人気が出て、短期間で億万長者になりました。それを見て「自分も億万長者になりたい」と思ったとしましょう。このとき、こう考えるべきです。お金が欲しいということは、いま自分にお金がないということ。あの歌手みたいに短期間で億万長者になれればいいけど、私の能力では絶対無理。では、私の能力では実際どのぐらいのお金を稼ぐことができるだろうか。また、どのぐらいのお金が私の生活には必要ですか、と考えてみるのです。それで計算して、自分のレベルに収入の目的をダウンし、それを目指して頑張るようにするのです。

危険を知る人が、危険を避ける

不満を理解していないと、私たちの生き方は曖昧で、はっきりしません。これはちょうど目に膜が付いている人が森の中で迷っているような状態です。目に膜が付いている人が、一人で森に入りました。目が見えないと、どうしても木にぶつかったり、つまずいて転んだり、蛇に噛まれたり、ハチや虫に刺されたり、迷子になったりと、非常に危険です。

 そこで、目に付いている膜を外すとどうなるでしょうか。その人はヘビや危険な獣がいることを見ることができますし、「森は危険である」ことを知ることができます。それから、東はどこか、西はどこか、と方角を知ることもできます。それで順番に歩いて行き、やがて森から出ることができるのです。たとえ出られなくても、目が見えなかったときほど危険な目にはあわないでしょう。木にぶつかることもないでしょうし、安全な道を選んで歩くことができるでしょうから。

 これと同様に、不満という森で迷子になっている人が、目に付いている膜を外し、はっきりと「見る力」を持ちます。何を見るかといいますと、不満の危険性です。不満の危険性を見る人には、どうすればその危険を避けられるか、ということが分かるのです。

 このように、森の危険性を見る人が森の危険を避けることができるように、不満の危険性を見る人が不満を乗り越える道を知るのです。

助け舟はお釈迦様の教え

 問題は、私たちに不満を見る明晰な理解力があるかということです。残念ながら、だいたいほとんどの人にはありません。その証拠に、世間はいつでも悩みや混乱、ストレスでいっぱいです。

 このような中で、私たちの助け舟はお釈迦さまの教えです。お釈迦さまはご自身で智慧を育て、悟りを開き、真理を発見され、その真理を他の人々にも分かるように明確に教えました。

 そこで私たちが明晰な理解力を育てるためにまずすべきことは、智慧の完成者であるお釈迦様の教えを学び、心の明晰さを濁らせる悪い感情を一つ一つ勉強することです。嫉妬や怒り、落ち込み、物惜しみなどの悪い感情は、心の明晰さを濁します。会社で仕事をしているとき、隣に座っている人はライバルだと考えて、その人にたいして敵対心をつくったら、必ず自分の心が汚れます。相手を倒さなくちゃいけないと思った人は、相手を倒す前に自分が負けるのです。ですからお釈迦さまは「競争心はよくない、他人をライバルと思うことはよくない」と教えました。そういうことを勉強して、汚い感情を避けるようにするのです。これは仏教を勉強することでしか得られません。仏教の教えを聞くことは、徳の中でも非常に高い徳で、聞けば聞くほど頭が冴えてきます。心の悪い感情はどれか、善い感情はどれかを明確に分析し、区別し、理解できるようになるのです。

 次にすべきことは、実践です。心の汚れを最終的になくすことができるのは、今の瞬間に気づくという「ヴィパッサナー」です。これは私たちの心を清らかにする唯一の道であり、最も効果的で、すぐれた実践法なのです。
(了)

(スマナサーラ師講義より構成しました/編集;出村佳子)

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