根本仏教講義
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4.死んだらどうなるか
(5)来世は自分で選ぶ
A・スマナサーラ長老

 先月からの、来世のお話を続けましょう。来世は、我々がキリスト教徒か、仏教徒かで決まるものではありません。浄土真宗か禅宗か、それで決まるものでも無いんです。上座仏教は阿弥陀様を信じていないから地獄ですよ、などと、そういう風に決めるものじゃ無いんです。あくまでも普遍的な法則に基づくものです。先月お話しましたように我々が最期にどんな態度を取るか、どんなアプローチをするかということが大切です。そこを知って、お釈迦様は、「落ち着きなさい、心を乱す事はするな」とおっしゃいます。「私を信じなかったら地獄に堕ちますよ」というような馬鹿げた嘘は言っていないのです。もしどこかの宗教が「自分の宗教を信じなかったら、地獄に堕ちますよ」と言っているとすれば、その宗教は完全に間違っています。インチキ宗教ですね。生命は、死んでからもまた命が続くとするならば、それはあくまでも普遍的な、宇宙的な法則でなければいけません。我々の神を信じなければ、地獄に堕ちますよと言うようなら、それはもうまったく間違った考え方です。何を信じるかという事は、残念ながら死後の決まり手にはならないんです。

 ですから、もちろん上座仏教を信じていれば必ず亡くなったら良いところに生まれ変わります、というようなことは無いんです。私達は、自分の国ではよくこんな風に脅かします。「あなた方は仏教の家族に生まれたから、それだけで天国に行けると思ってるんですか。冗談じゃない、そんな悪い事ばっかりして、下らない事ばっかりしていれば、もう当然地獄でしょう。ただ形だけで三帰依したり、戒律や五戒を言ったりしても何の意味も無いんですよ」と、ハッキリね。

 葬式の時は大体そういう話です。時々私は、葬式の中でこう言うんですね。「亡くなる時は、お坊さんに説教出来る位の事をやっておきなさい」と。あまりにも下らない、何もしないで死んだ人の場合は、何も話す事が無いんですよ。亡くなった人の悪口を言う訳にもいきませんし。私は少々口が悪いですから、人が亡くなって悲しんでいる人々の前で堂々と「あなた方は皆こういう風に亡くなるんです。何か自分だけは死なない様な、他人事のような感じで泣いていますが、死なないとでも思っているんですか。皆死ぬのに、なぜ泣くのですか。誰でもこんな目に遇うんです」と言います。泣く人はあまりにも馬鹿馬鹿しい。泣く場合は、あの人は死んでしまって可哀想、私はこっちで生きてるのに、という感じででしょう。でも実は自分も同じです。可哀想に、死ぬのです。ですからこういう事は、ハッキリ言うんですね。
 大体葬式にお坊さん達を呼ぶわけですからね、私達は何か喋らなくてはいけない。ですから喋られる位、5分か10分でも喋られる位の内容の事をしておきなさいと話すんです。あなたも必ず死にますから、と。そうでない人生は空しいですよ、とね。

 上座仏教の世界というのはズケズケとこういう失礼なことを言う世界です(笑)が、皆が肚を立てて「じゃあ明日からそのお坊さんにお布施をしません」という事にはなりません。大体皆、よく言ってくれました、とおっしゃいます。普通坊さんは誤魔化しばっかりやっていて、亡くなった人を褒める場合も多いんですけど、やっぱりはっきりと言っておかなくては、人間は幸福にならないんです。

 それから、生命には色んな次元があります。皆様は地獄はどういう世界か知ってますか。地獄の世界は、日本の仏画なんかにもありますね。皆様も結構行った事があると思いますよ。思い出して下さい、地獄ってどんなものかと。もし過去生を思い出せるならば、それは簡単に思い出せます。瞑想でもして、自分の過去を思い出せば、過去で自分が何をやっていたか見えてきます。

 地獄という次元があります。それは不思議な次元で、まあ大変低次元です。それから段階的に、いくつも生命の次元があります。我々は三次元にいて、今の脳細胞、今の目では、他の次元を何一つとして体験する事は出来ません。どういう事かというと、人間を見て地獄を理解しなくちゃいけないんです。ですから仏画の中でも、地獄として描いているのは、やっぱり人間の世界なんです。本当はもっと恐ろしく描くべきだと思います。

 たまに人間世界の中に、いつでも喧嘩したり大変恐ろしい生活をしている人々がいます。鉄砲を持っているわ、人を刺す道具を持っているわ、もう喧嘩ばかりしているわ、マフィアやヤクザみたいに生き、いつ殺されるか解らないし、自分も相手を殺さなくちゃいけないし、お金を取ったり、人を脅かしたり、まあ人の家に火を点けるわ、そこで自分の親分から殴られるわ。それでも、その親分に徹底的に誠意でしがみついている。その生活と、我身の生活を比べてみて下さい。

 我々は普通、喧嘩は嫌いです。相手がちょっと気持ち悪い事をしても、やっぱりこちらから失礼な事を言うのは避けようとします。何故ならば後から問題が出て来るような関わりは嫌なのです。平和でいたいのです。兄弟で喧嘩したとしても、すぐ仲直りしてしまいたい。両親が喧嘩すると、やっぱり子供は嫌なんですね。夫婦は仲良くして欲しいと思うのです。

 そういう2つの生き方を人間の次元で考えてみて下さい。悪い事をやっている人は普通にどう思われたとしても、自分の生き方は面白いと思ってやっているのです。人を殺しに行って、自分の目が見えなくなった、手が一つ無くなった、日本刀でやられて、指が一本無くなったと。そういう人たちはそれでも平気で恐ろしいグループにいるんですね。その中にある心の次元が解ります。その人たちはそういう風にしか生きていられないのです。平和で仲良く皆に優しい生き方が出来ない。刺激が無いのがつまらないのです。
彼らは、死ぬ刺激、恐怖の刺激、怒りの刺激、激痛の刺激で生きています。プロレスなどをしている人々はとても気持ち良くやっているんですよ。体はボロボロで怪我だらけで早死にすることもわかっているのにそれでも続ける。一体何が面白いのでしょう。どこかで普通のトラック運転手でもやっていればもっと平和に生きていられるのに。お金がたくさん入っても、楽をする時間も無く、毎日訓練しなくちゃいけない。毎日、闘わなくちゃいけない。つまり、痛みの刺激で生きているんですね。

 人が死ぬ時、しばしば心がそのような次元に堕ちてしまうことがあります。すると次に生まれ変わったとき、そこの食べ物は、怒り、恐怖、激痛…そういう物を食べて生きる生命になるのです。
我々と同じ口は無い。口が無ければご飯が食べられませんね。でも、怒りを食べる為に口は要らないでしょう。地獄というのは、そういう風に、激痛、恐怖、並々ならぬ苦しみを食として、餌として取っている次元なんです。もし死ぬ瞬間に自分の心の次元が、そういう風に痛み、憎しみ、怒りを快感にする様になってしまったらもう危ない。その地獄へ落ちてしまうかもしれません。

 仏画で描いている様な、地底に地獄があって…そういう話は、我々に解り易く言うための物語です。そこでは、ずっとお互いに怒り合い殺し合って生きています。人間の仏語の中では、地獄に行くと鬼達が舌を抜くとか、人を何か溶岩みたいなものの中や、釜の中に入れて煮たりするということになっていますが、そういう事をすると死ぬでしょう。例えば、お腹がすいたと言ってしまったら、鬼達に熱した鉄の玉を食べさせられるとか、それでその玉は内蔵を全部燃やしてしまい下に落ちてしまうとか。そんな事があれば当然死んでしまいますよね。そういう話は、単に我々に解り易くするための話にすぎません。

 実は、彼等の「食べる」という事は、そのように死ぬ程苦しみを味わう事なんですね。皆様方の誰か一度でも、事故を起こして死にかけたり病気になってすごい苦しみを味わった事があるならおわかりかと思いますが、その苦しみを毎日毎日、瞬間瞬間味合わなくちゃいけない状態なのです。
それでなぜ死なないかと言うとその苦しみが餌なのです。だから死ぬ訳はない。ご飯を食べて死ぬ人はないでしょう。激痛を食にしている。死の恐怖を食にしている。そこでその死の恐怖が得られれば得られる程、この地獄にいる人々の生命は伸びるわけです。もし瞬間でも死の恐怖が消えたと思ったら、死んでしまう。食べ物が無くなるのです。そこ迄の苦しみの究極の次元にいるのです。

 では天界というのはどういうものかというと、その逆に、楽しみを食としているわけです。ですから、地獄より天界の方がいいと皆思っているのですが、結局はちょっとした次元の差でしかありません。

 餓鬼道のお話は、日本で大変人気があるので、日本仏教にはまるで人間と餓鬼道のお話しか無い様に感じることがあります。しかしそんな話ばかりだと、亡くなったら皆餓鬼道に堕ちてしまいますよ。そういうケースもありますからね。幽霊が現れたなどというのは餓鬼道なんです。物惜しみの快感ですね。いつも「ああすればよかった、こうすればよかった」と、悩んでいる状態です。その時も我々は、何か満たされてないという、強いエネルギーを出してるんですね。そのエネルギーで食をしている次元があるんです。いつでも「食べたい、食べたい」「お金が欲しい、欲しい」、また「もっと奇麗になりたい、もっと、もっと」「もっと健康に」と我々はよく思いますよね。そのときは餓鬼道の次元に似たようなエネルギーを作っているんです。死ぬ時も、「あれをしておけば良かった、これをやっておけば良かった、もっと金を儲けておけば良かった」とね、そういう満たされない、乾いたエネルギーで死んでしまったら、たとえ阿弥陀様を見たところで「もっとお寺に行って、丁寧にお寺参りした方が良かった」などと思う、するともうそういう次元に落ちてしまう恐れがあります。その生命は、ずっと、無い、無い、無いという苦しみでいる。その苦しみで苦しんでいるかどうかは解りませんが、それを食にしているのです。だから例えば餓鬼道の餓鬼達が瞬間でもお腹が満腹になってしまったら死ぬのです。今日は満腹だと思ったら、その瞬間に死ぬ。ああ良かったな、と思ったら死ぬ。だから、死にたくないので、皆、そうは思わない。

 人間もそうでしょう。例えば人間は、人間の世界だから「お腹が満腹になった」と喜ぶのであって「お腹が空いた、良かった良かった」と思う人はいないでしょう。それは人間の次元なんです。

 一方、天界というのは、楽しみや快楽を食にしているんです。だから皆様は天界に生まれ変わったら、そこで遊んだり音楽を演奏したり踊ったり歌ったり、性的な行為を思う存分やったり、お腹いっぱい食べたり、そういうイメージで「楽しいそうだな、天界に行きたいな」と思われるのではありませんか。でも本当は天界では、そういうことをしないと死ぬんです。彼等は楽しんでいる訳じゃなくて必死で生きているんです。遊ばなきゃ死ぬ。音楽の波動で生きている神々はちゃんと定期的に、決まった時間にその音楽の波動を食べなかったら死んでしまうんです。我々は楽しくなる為に演奏を聞いたりしますが、天界の場合は生死の問題です。死ぬか生きるかなのです。それでも皆様は行きたいですか、天界に。(以下次号)

(スマナサーラ師講義より構成しました)

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