根本仏教講義

4.死んだらどうなるか 6

長生きへの執着は何をもたらすか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

来世を選ぶのは自分だ、というお話を先月はしました。また生命には色々な「次元」があって、地獄のような次元であれ、天界のような次元であれ、生きる道、喜び、苦しみはそれぞれなりにあるのだということもお話ししました。

今月は、もう少し違う次元の話から始めてみましょう。修行などをしていると、とても上の次元が色々あります。

人間と神々の間に色々な関わりが何故あるかと言うと、我々を食べ物にしている神々がいるからなんです。所謂生命は、それが人間界であれ地獄であれ天界であれ動物界であれ先月お話ししたように、その次元の生命が楽しく食べて、平和に暮らして、良かった良かったという気持ちで生きているわけですね。つまり満足感です。
その満足感というエネルギーの波動、心のエネルギーの波動を食にしている、そういう神様、生命体が、我々に幾らか満足感を与えてくれる様な事をするんですね。そんなには助けてくれませんけれどね。大変わがままで自分勝手な生命体ですよ。しかも満足感で生きている人からそういうエネルギーを受け取り満足感を与えてくれるようなことをするだけであって、そうでない人は助けてあげません。

そこはまた決まってるんです。例えば満足感のエネルギーを食べている次元がいて、その次元がいっぱい食べ物を食べたいと思ったら、人類を皆満足にしてしまえばいいと思うでしょう。それは出来ないんです。餌があると食べる、無ければ死ぬという点では、我々と同じなんです。ですから神々に頼っても、それ程役に立ちません。

「幸福な奴等は何時でも幸福ではないか」と怒って言う場合があるでしょう。それは、そうなんです。とても幸福な、何をやっても成功する人々の所には、それを食にしている生命が憑いているんです。だから何をやっても成功する。恨んでも仕様が無いんです。皆様方が、凄く怠けて掃除もろくにしないで、子供とも喧嘩するわ、旦那さんが家に帰って来るとすぐ喧嘩を売っちゃうとかね、そういう環境を作ったらどんどんその環境が膨張して大きくなってしまうんですよ。我々が出すエネルギーを餌にしている生命がいるんだから。だからもう大変です。
ですから何時でも明るくいて下さい、というのはそういう訳なんです。冗談にでも怒るな、と。怒っちゃったらどんな霊が憑くか解らない(笑)。怒りの霊が憑いてしまったら、ずっと怒らなくちゃいけないんです。低次元のものが趣くとね。

まあ通常上座仏教はそういう話はしませんよ。
知ってはいるんだけど、そういう悪い霊は皆追っ払ってしまうんです。自分の心の力で生きようと頑張るんです。自分を灯火にして、自分を島にしてね。頼ってはいけません。他人に頼ることは大変危険です。

そこでもう少し高い次元の事を言うと、例えば瞑想でもして心の汚れを全部無くして、欲が無い喜びを味わう人がいるんです。皆様のなかには瞑想の経験がある方々がいらっしゃいますから、たまにでもヴィパッサナー瞑想をして気持ち良いなと感じた事はあると思いますよ。何もしないで、好きな音楽も聞かないで、好きな食べ物も食べないで、好きな遊びもしないで、ただ座って自分の呼吸だけを見ている。それで何か質の違う楽な感じ、楽しみの感じ、「ああ楽だなあ、リラックスだなあ」と感じる場合があるんですね。それは貪りから放たれる幸福と言うんです。質が違う。音楽を聞いて楽しいという感じと、何も音を聞かないで落ち着いている楽しみは違うでしょう。完全な静けさを楽しむというような、そういう欲から離れた楽しみを味わう次元もあるんです。
それは高度な次元で、そこに生まれたら寿命はとても長いんです。なぜ長いかというと、そこら辺の生命の食べ物が“何もしない事”なんですね。音楽を聞こうとか、異性と遊ぼうとか、そういう事ではなくて、そういうものから離れ、清らかな心でいようとするんです。その次元は、生まれたら清らかな心ですから、そのまま放って置けば心は清らかなままで、それはそのまま食に、栄養になってしまうんですね。ずうっと宇宙が一回壊され、二回壊される迄、寿命は続いていくんですね。体の寿命の長さが、億単位で兆万単位で数えなくてはいけないくらい、それほど長い時間いられる。そして最後に死ぬ。この清らかな心もずっと続くとどんどん力が弱くなりますからね。弱くなってくるとやっぱり刺激が欲しいな、となるんですよ。
何か音楽でも聞いた方がいいな、となったら、その生命から「はい、バイバイ」ということです。

人間が死ぬ時は、やっぱり一ヵ月か三ヵ月位はかかります。死が近付いたら大体一年位で気付くんです。
でも人間が頭が悪いというのは、死ぬ時でさえそれほどはっきり気付かないんですね、うすうすは気付いているんですが。つまり私が前に説明したように、死ぬ原因も本当は解ってるんですが、気付いてない。それはひとつには、死にたくない、という衝動のせいでしょう。死にたくない衝動には気付いているわけですから。それ自体が来世へ移行する衝動なんですね。それで死ぬ一年位前になって来ると、心で解るんですよ、自分自身でね。そろそろ人生は終わりだと。
終わりだと解るんですが、どういう風に解るかというと、何か落ち着きが消えてしまう。もう、お婆ちゃんお爺ちゃんですからそれ程自由も無いし、面倒見てくれる人々に当たってしまう、えらくわがままを言う。例えばおむつを替えてもらったり、色んな事で「痛いではないか、窮屈だ、丁寧にしてくれ」とかね。自分で不自由なのに、今迄とはまったく違う様にものすごくわがままは言うわ、子供に執着するわ、財産に執着するわ、すぐ肚が立つわ…
良くないんですが、それはこの脳細胞のせいでそうなってしまうんです。脳細胞はこの世に置いて行きますから、心のエネルギーが、もうそろそろあなたはバイバイしなさいと言っているところなんですね。それで心と体と知識は、バランスが合わないんですね。本当は死にたくない。ですからわがままを言うんです。

皆様は、もう寿命が来ている人々がわがままをいくら言ってもあまり肚を立ててはいけません。
はっきりと私達も理解しておかなくてはいけないんですね、「その方はそろそろです」と。それで執着を捨てる事を教えてあげなくてはいけないんですね。例えば、亡くなっていく人が財産の事を喋ったら、まだそんな事を考えてるんですか、財産が何の役に立つんですかと、その欲や執着を捨てる方向へ心を持って行かなくてはいけない。あと何年生きているつもりですかとね。その人が死ぬ事は出来ればはっきりと言ってあげた方が、いいところに生まれ変わるんです。

私だったら言います。それで大変な事になったケースは一つも無いんです。私に脅かされた人々は皆とても落ち着きました。死ぬ時になってまあ文句言うわ、悪口言うわ、面倒を見ている人々に色々な事を言うわ。よく、面倒を見てくれていると「お粥を食べたい」というんですね。で、お粥を作ったところで「これは食べられません、パンを一枚食べたいんだ」と。そこでパンを持ってくると「これは柔らかくて、トーストしていないから嫌だ」と言うんです。トーストしても「これは固くて食べられません、ご飯が欲しい」と。面倒を見ている人はもう大変でしょう。その人々は誤解しているんですね。その人は本当にお粥を食べたがっているんだ、と思ってしまうんです。そうじゃ無いんです。あれは死を見て体験していて、もうそろそろ死ぬということのための混乱なんですね。私は、その人がテーラワーダ仏教の信者さんだったらいとも簡単に言うんですよ。あなたは何のつもりですか、あとどれくらいいるつもりですか、まわりの人々に慈しみの心を作るのが当然ではないか…そう言ったら落ち着くんですよ。

ある人が急に病気になって倒れてしまい、かなりの歳でしたので、本人が、自分はもう死ぬだろうと思ったことがありました。それでえらく混乱して、病院に行く前に、色々ああだこうだと喋ってるんですね。鍵の事だとか細かいことを色々とね。それで、僕は頭に来て「死ぬ時は鍵を持って行くつもりですか、いいかげんにしなさい」と。
それで落ち着いたんですよ、いきなり、その瞬間に。結局、病気は治りました。やっぱり執着してたら治りますよ。癌になるということはすごく有り難いことなんです。何時死ぬかということが、もう決まっているわけですからね。だから癌は告知するべきだと思います。日本みたいな社会で、本人に死を告知しないという事は、どれ程人間を馬鹿にし、低いレベルに我々が生きているかということかと思います。

色々言いましたが、生まれて一日で死ぬ生命もあって、また、生まれてから万兆年、宇宙一つ出来上がって、消えてまた出来上がるようなそこ迄も寿命が長い生命もいるんです。微生物などを見ていると、生まれてその場で、見ている場で死んでしまうんですよ。それでもその生命は、ちゃんとした寿命は全うしているのです。ちゃんと生まれて、大人になって、自分の仕事をして、子孫を残して死んでいるのです。

要するに、我々は寿命の長さをあまり気にする必要はないのです。長生きしたいという気持は、皆、持っていますが、それがどういうことかを理解していません。あまりにも幸福で楽しくてたまらないという人は死ぬのが惜しく、長生きをしたがるし、今までの人生に不満があって、人生はこれからと思って、長生きしたがる人もいます。幸福で、死ぬのが惜しいと思う人は、この世に対する執着がありますから、死ぬときには苦しむんですね。未練があって死ねば、来世でも不幸になってしまいます。逆に今の生き方に不満を持っている人も、死ぬときは満たせなかった欲望で死ぬんです。もっと色々やりたいことがあったのに、と思います。その人は、果たせなかった欲望を持ったまま、悔しい気持で死にますので、また来世は不幸になるんですね。

そうではなくて、人間として自分は、もうやるべきことをやった、別にこれをやりたいとか、何かをやり損なったとかいうこともほとんどないと思えるなら、その人はいつ死んでもいいと思えるでしょう。長生きしようという気持ではなくて、人間としての役目を果たして、いつ死んでもそれはその時だと、満足して生きることです。そのように生きる人の来世だけは幸福になります。
(『死んだらどうなる』の項目は終了)