根本仏教講義
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5.仏教とは何か
(1)仏教とは何か
A・スマナサーラ長老

 今日は、仏教って何だろう、という基本に戻ったお話から始めてみようと思います。ここは何も仏教を洗脳しようというような場ではありませんので、皆さんが自分の心を理解して、清らかな明るい心で、自分達も幸福に生き、自分のまわりに生きている人々も幸福にしてあげるためにはどうしたらいいか、というぐらいの人生のテーマで、話を進めてみようと思います。

 仏教というのは英語ではBuddismといいますね。このブディズムという英語の言葉は、仏陀の教えという意味で使っています。我々は元の言葉でも「宗教」という言葉は使いません。だいたいいつもこの「仏陀の教え」という言葉を使っているんです。一方、ヨーロッパ的な、現代的知識のある人々には、「宗教」、Religionというものがあって、このレリジョンというのは信じるもので「信仰」なんです。これは「リゴ」というラテン詩の言葉から来ていて、結ぶ、束縛するという意味の言葉なんですね。人間があまりに勝手な行動をするものだから、再び神に繋げておく、ということを意味しているんですね。このような、いわゆる「信仰」というようなことでしたら、僕らの文化ではそういう意味のものはもともとないのです。少なくとも仏教ではありません。つまり仏教は「宗教」「信仰」ではなくて、我々がいつも言うのは「教え」なのです。ということは、皆さんにとってたった一人の教えだけが人生の役に立っているわけではありませんよね。誰もが、色々な人の教えを勉強して、それなりのことを実行しているわけですよね。そのひとつなんですね、仏陀の教えも。

たとえば医学の専門家の教えを聞いて我々はちゃんと実践していますよね。お医者さんの言うとおりにやって、それで健康が保たれているんですよね。それと同様に、仏陀は、健康のことや数学のことでなく、心の豊かさについて教えてくれているということなのです。どうやって心を全うするか、どうやって心の悩みをなくすか、どうやって完壁な人格を作るか、そういう方法を教えたんですね。ですから、仏陀の教えを聞いて我々の心にある未熟なところ、いけないところを全部直して、磨いて、いわゆる完壁な人格を作ること、完壁な完全なる姿になること、理想的な言葉かもしれませんが、完全なる人間に、生命になることが仏陀の方法論なんです。ですから、その教えを実践する、実行してみるということで「宗教」にはならないんですね。「仏陀の教え」なんです。

 そこで、次に仏陀ってなんでしょうか。仏陀というのは、田中さん、中村さん、村山さん、というような感じで名前なのでしょうか。そうではないんです。仏陀と言うのは、ある精神的な立場、位置なのです。仏陀にも名前があります。お釈迦さまは、実存した歴史的な人物ですからね。日本的に言えば、ゴータマ・シッダルダ、姓がゴータマですね。ですからアメリカ風に言えば、シッダルダ・ゴータマになりますね。

 仏陀というのは精神的なステータスというか、位置を示す言葉です。仏陀というのはBUDDHIという言葉から来るんです。BUDDHIというのは、Intelligence、あるいはKnowledgeのことで、智慧なんですね。わかりやすく言えばブッディというのは智慧です。ですからブッダとなると智慧を完成した人、智慧の完成者、智慧の成就者といういう意味なのです。つまり、人間以外の何かではなく、あくまでも我々と対等な人間であることにはちがいありません。

 世の中にあるごく普通の医学、化学、物理学、美術などと同じように、方法を教えて、こういう風に実践してみればこうなりますよというような普通の教えとして見ていただいてかまいません。
ただ、そのような、とても現代的な科学的な視点を持った人が、生れたのが今から2600年前だったということですね。当時には、家族的な社会があったわけでもなく、ものすごい信仰や迷信などがものすごくいっぱいあったわけです。宗教哲学とか色々なものが発展していましたが、科学的にはそれほど発展していなかったのではないでしょうか。そこで歴史を経るうちに、仏陀の教えもひとつの宗教になってしまったのです。我々インド文化系の人々は、先生方の教えというのを大変ありがたく尊敬します。単なる先生のように、教えてもらうことが終ると、じゃああっちへ行ってください、というような感じではありません。一度何かを教わった人に対しては、心から尊敬するのです。小学校で教わった先生であっても、自分がその後大学の教授になった後でもちゃんと尊敬するのです。社会的に見れば、一人は教授で一人は退職した普通の人かもしれません。それでも自分の先生ですから、精神的にはとても大きな尊敬を持っているのです。そういう我々の文化圏の生き方がありますから、どんな哲学を教えてもその人は結局仙人になってしまうのです。たとえばインドの有名な星占いにしても、あまりにも素朴でくだらないことですが、この星占いの学問を完成した人を、今だに仙人として拝んでいるのです。本当に宗教家なのか、とか仙人なのか、といったことを気にすることもせず、やっぱり尊い教えを敢えてくれたので、現代の占師もちゃんとお線香をたてて礼をして、それから占いに入るんですね。それは目上の人に対する心です。

 そんなわけで、インド文化系の地域では、仏教であれ他のことであれ、宗教になってしまうのはやむを得ない現象なんですね。だからといって現在我々が考えている新興宗教とか、人を厳しく束縛して財産や自由を奪って、人間を奴隷や動物扱いするような、あるいは教祖が「皆様、来週は世紀末ですから毒を飲んで自殺しなさい」といえばみんな一斉に毒を飲んで自殺するとか、そういう風な宗教とはちがうんですね。そのような恐ろしい人殺しの宗教は現代人が、科学の世界の人間が作る宗教なのです。日本も現代社会、科学発展している最先端の国ですから同じタイプの宗教があります。アメリカなどは、そのような恐ろしい宗教がいくらでもあります。ひとつ死ぬとまた新しいものができ上がってくるのです。それは科学発展のせいで、人間は心を見ることをまったくしなくなり、科学と同時に不思議に人間が馬鹿になっていってしまうんですね。まったく不思議です。
科学が発展するほど、視野がどんどん狭くなってものごとが見えなくなって、何もわからなくなっていくんですね。

 科学自体が悪いわけではありません。どこか少しレールを脱線するというか、違うところに行ってしまうのです。それが我々現代人が抱えるひとつの問題なんですね。Specializationという英単語がありますが、現代社会では、ものごとをきめ細かく分けて、専門化して、その一部だけを勉強する。たとえば、からだのことをとってみても、我々は病気になったら病院へ行って「先生病気になりましたので治してください」とお願いしますね。病気になるときはからだ全体が病気になるんです。風邪ひとつとってもそうです。でも病院へ行くと、色々な科に分かれていて非常に局部的な治療をするんですね。心臓の先生は他のことをまったく気にしない。先生方はそれで治っていると言うかもしれませんが、治っていないのです。

 あまりに局部的になっていて、心臓の先生は心臓しか知りません。心臓をいじってそれですべて終わりとしてしまいます。「先生まだあっちが痛い、こっちが痛い」と言いますよね。すると先生は心臓を診て「あなたの心臓はもう大丈夫でしょう、他へ回ってください」と言う。それで他へ行くと「あなたの肺が良くない」と言ってその肺の専門家がまた胸を開けて肺をいじったりするわけですから大変残酷なんですね。私たちが一貫した生命として生きる自由さえ奪っているわけですから。外科は外科のことしか知らない、内科は内科のことしか知らない、お医者さんが結局はからだのことを知らない。それは大変な矛盾です。自分の専門分野は素晴らしく知っているがからだのことは知らないのです。私は個人的に色々聞いたことがありますが、自分の専門分野ではとてもうるさいことを言うのですが、ごく普通の他のことを聞くと、小学生の子供が言うようなことを言っているのです。(笑)僕は心のなかでにこっと笑って、やれやれと思ってしまうんですね。それくらいなら、からだに関しては僕らの方がもっと智意を持っているんです。でもどこかの部分については専門家ではありません。

 科学の世界では、一部、一部がすごく発展していったところで全体が見えなくなってくるんですね。木の勉強はするけれど、森がどういう風にあるかということはまったくわからなくなってしまうんですね。

 ですから、我々現代社会で宗教というものが生れたら、逃げた方がいい。すごく恐ろしいものだと思います。我々の科学と同じように。我々の命そのものを奪ってしまいますからね。昔の宗教はそんなことはありませんでした。キリスト教にしても、もちろん愚かな者はキリスト教をもって人を殺したりしましたが、ごく普通のキリスト教の教えではそういうことはなく、人間が幸福な生き方を考えていけるようお手伝いしながら、お互い助け合って仲良く平和に生きていくことを教えていたんですね。商売ばかり考えている人々は、人のために何もやれませんから、教会の方でそういう面は全部担当して責任を持ってがんばって、今まで生き続けているのです。古い宗教は、悪いことをした覚えはまったくありません。現代人が、現代の宗教を見ていて宗教に反感をもっているのはあたりまえかもしれませんし、仕方がありませんが、それにしても仏教というのは智慧の教えであり、智慧の実践法であり、そのような「宗教」ではないと、僕は一応申し上げておきます。

 さて、本題に入るのが遅れてしまいましたが、これから「悩み、苦しみはなぜ生れるのだろう」ということについてお話していくわけですが、その前にもうひとつ考えてみたいことがあります。本当に我々には「悩み・苦しみ」があるのか、ということです。この坊主、今さら何を聞いているんだと思うかもしれませんが、仏教は科学的な宗教ですからきめ細かく考えなければなりません。

たとえば「私は病気です」と言う人がいて「ああそうですか、では薬をあげましょう」と、そんなおおざっぱなことはとても危険なんです。「私は病気です」と言う人がいても「なぜ病気だと思いますか」と聞いた方がよいのです。それで本人は病気じゃないとわかります。たとえば僕らのように歳をとってくると、からだのあちこちが痛いし前のように動かないところが色々あるんです。階段をあがるときに膝がギリギリ泣いたりして痛いとか。それで「先生、私は大変な病気ですから薬をください」と頼むと、先生は「はいはい」と薬をくれますが、それは良くないんです。「なぜ痛いのか」「この人は何才なのか」と色々考えるとこれは病気ではなくて老化現象だとわかります。

それでもお医者様は薬を出しますが、正しく考えればそれは老化現象で、誰もがそういう風にからだが弱くなって動かなくなって、死ななくてはなりません。それはあくまでも自然現象であって病気ではありません。そのように、皆さんは自分で考えなければなりません。本当に私は悩んでいるのか、苦しんでいるのかと。それにはっきり答えられる人がいないのは、我々が自分の人生を客観的に見たことがないせいなのです。(以下次号)

(スマナサーラ師講義より構成しました)

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