根本仏教講義
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5.仏教とは何か
(3)生きる道具とその上手な扱い方
A・スマナサーラ長老

 雨が降る、だから傘をさしていく、そのくらい明確に人生を選んでいけるなら、「悩み」はないということを先月お話ししました。

 どんなに偉い哲学者や説法師が、傘をささないわけを解説したとしても、それは屁理屈であってばかばかしいことなんですね。人間は自然と一体にならなければならないからとか、きれいな水に濡れることでからだが健康になりますとか、何を言ってもばかげていますよね。そんなことは我々は普段しないのです。ごく普通に考えて、選ぶ道はひとつしかない、仏教というのは、そのような人生を作りたいのです。雨が降っているならば傘をさす、それしかない、そういう風にしっかりした判断、明確に現実を見極める目を持ってほしいのです。

 皆さんが持つ悩みは、すべて選ぶときの悩みですよね。どうしようか、またどうにかしよう、という悩みなんですね。皆さんが自分の子供のことで悩む。どんな大学にやろうか、と考えたり、また病気になったといって悩む。どんな医者にかかればいいかと悩んだり、どんな治療法を選んだほうがいいかと悩む。また、家族関係のこと、人間関係のこと、経済的なこと、だいたい悩みといえばそのくらいのことでしょう。それらは「悩む」ようなことではないと僕は思いますが本人にとっては大変な悩みなんです。なぜならば、悩んでいる人は、人生が何なのかということがわかっていないので、どちらを選んだ方がいいのかわからないのです。機械が故障していても、どんな道具が必要かがわからないということです。

 わからないので片っ端からありとあらゆる道具を揃えるのです。でも道具がいくら揃っても、故障した機械はそのままでしょう。一方、この機械はこういう機械でこの辺が故障しているから、こうすれば修理できるとわかっている人は、必要な道具ひとつだけ持ってきて、さっさとネジひとつはずして修理してもうOK。悩みがないのです。
ですから、その機械を良く知るように、人生そのものがわかるように勉強すれば、もう人間の悩みはなくなってしまうんですね。この、「選ぶ」という悩みがね。

 お釈迦さまは「悩み」を特別に説明しているんです。仏教の真理の第一番目が、悩みの真理なんです。第一番目というくらいだから何かとても難しいことを言っているのではないかと思ってお経を読んでみると、全く反対なんですね。得るものを得られない悩みとか、愛する人から離れる悩みとか、歳をとったという悩みとか、病気になったという悩みとか、そういうことが人間の悩みだとおっしゃっているのです。人間は、生きるということを知らないわけですから、そういうくだらないことで悩んでいるんですね。死んだことは一度もないのに死ぬことをものすごく怖がったりね。
それでそれを真理の第一だと、お釈迦さまはおっしゃるのです。人間というのは、生きることが何かも知らないのにくだらないことで悩んでいる、選ぶことで悩んでいるのだと。

 しかし実は皆様には、選ぶ権利なんてないんです。これにはこれがぴったりと、選ぶ人は専門家でなければなりません。たとえば皆さんが病気になったとき薬屋さんに行って、これこれこういう薬をこれだけの量を私にくださいと言いますか?
言いませんよね。なぜなら私たちは専門家ではありませんから。体は自分の体ですが、どこかの全く知らない先生が、あなたはこれを飲みなさい、あなたは手を切って捨てなくてはなりませんと勝手に決めるでしょう。あなたの腸はガンだから、腸の20cmは捨てなければなりません、とか、生きていたいならあなたの胃は完全摘出するしかありませんと言われると、「先生にそれを選ぶ権利はない。私の体なのだから、私が生きる方法を選ぶ」とは言えないのです。本人は体の専門家でもなんでもなく体のことは何もわからないわけですから、決めることはできない、不可能なのです。
少しでも長く生きたいと思い、その方法はひとつしかないと専門家である医者が判断するなら、選択肢はひとつしかありません。

 子供が、不良の道に走りかけている。どうしよう、どうしようといろいろなことを試してみるんですね。子供を叱ってみる、門限を決めてみる、おこずかいをあげずにがんばってみる、いろいろな人に頼んでみる、また子供と外国旅行でもしてみる…いろいろなことをしてみるけれど全然効果がない、それでずうっと悩みっぱなし、そんなことはいくらでもあるんですね。

 我々の人生って何でしょうと聞いてみても全くわからないような状態で、何も選ぶことはできない、それでも選んでしまいます。選んでしまったら、当然ながらひどい目にあってしまいます。飛行機の操縦を一度もしたことのない人がいきなりジェット機の操縦席に座って、あっちこっち押したいものを押して、引きたいものを引いて飛行機を動かしたって死ぬしかないように、全くわからない専門外のことを決めることは、不可能なのです。素人が飛行機を正しく操縦して目的地に行けるということは絶対にありえない。また、皆さんが全く薬のことを知らないとしたら、病気になる度に薬屋さんに行って、あの薬ちょうだい、この薬ちょうだいと言って好き勝手に薬を飲み、自分勝手に注射を打ったりして病気が治るということもありえないんです。もっとひどくなる。

 お釈迦さまはおっしゃいます。人生をちゃんと観察していない人は、あれこれむやみやたらと走り回って、ますます自分の悩みを増やし、残酷に苦しみから苦しみへと走ってしまうのだと。だから自己を観察してみなさい、生きるということはどういうことか、ちゃんと見てみなさいと。ものすごく難しい教えなんですが、本当は論理的にはすごく簡単なんです。
 仏教の教えから言うならば、人間には並々ならぬ苦しみがあるのです。人間がやっていることはすべてただの苦しみだというのが仏教の考え方なのです。「生きる」ということを知ることなく、道具だけを揃え、揃えて揃えて一度も使う予定もないし使えないで死んでしまう。道具は何のために必要なのかがわかっていないと、道具があっても何の意味もないのです。

 ですから我々の人生は苦しみばかりで空しいものであるとお釈迦さまはおっしゃいます。幸福にはなれるはずがないのだと。幸福になろうと結婚しても、そう簡単には幸せにはなれない。子供がいれば幸せかと思って作ってみるが、幸せにはなれない。お金さえあれば幸せだと思ってお金をもうけてみる。でも幸せにはなれない。健康さえあれば幸福だと思っている人々は、毎日運動して健康なからだを作る、でも全然良くならない。何かどこかで納得いかない、満足いかない、不満ばかり。何をやっても完全なことができない。それもまた当り前です。何のためにやるのかがわからないまま、やっているからです。仏教の勉強をなさっている皆様も、本当のところを正直に言うと何のためにやっておられるのでしょうか。何のために一生懸命勉強しているのかさえわからないままでは、勉強したからそれで満足するということにはならないのです。

 たとえばウーロン茶を一本買いたい。そこにコンビニエンスストアがある。ということになればさっさと店へ入って、ウーロン茶を一本買ってくるでしょう。このこと自体には何の問題もなく、ちゃんと満足しているはずです。目的がはっきりしていますからね。その人が、ああもう少し、店にいたかったなあ、いろいろなものがあったんだからそれも全部見ておいた方がよかったのではないかなどと悩むことは何もないのです。

 人生もそうやってすべてにきっちり目的を決めたなら、どうするべきかということはちゃんと決まってしまいます。そこで全ての悩みは消えてしまうんですね。ところがそれがないために人は生きることにいろいろ悩んでいるのです。何をやってもどこかで納得がいかず、うまくいかない。

 主婦の方は一生懸命料理しておられることと思います。でもまだいろいろ不安があるかもしれませんし、自信がないかもしれません。たとえば、主婦としてずっと料理をしてきたとします。そこで旦那さんが「明日は50人達れていきますから何か作っておいて」と言われたらどうしますか?
旦那さんの頭をぶんなぐっちゃうでしょう(笑)。
「あなたはもう25年もその仕事をやっているんだからプロでしょう。しっかりやりなさい」なんて言い出そうものなら「離婚させていただきます」なんてことになるかもしれません。そんなものなんです。25年やってきても、まだまだ自信がないんです。毎日やっていることであろうと失敗する可能性がありますからね。生まれてからずっと続けていることについて、何ひとつ自信がない、何か満足がいかない。どれほど健康な体で生まれても、毎日努力して健康を維持しなくちゃならないし納得しました、ほっとしましたというときがない。そういうすべてのことは、我々に対する苦しみなんですね。それを認めないことはさらに大きな苦しみなんですね。一番大きな苦しみは、皆さんが我々は幸福だ、ああ生きていてよかった、と思うことなんです。

 話が少し難しくなりそうですので元に戻しますが、我々は、人生に苦しんでいること、不満であるということを認めようとしません。一流の人間になったところで自信がついてしっかりすると思っています。不安をなくすためにありとあらゆる生きるために必要な道具を集めます。道具というのは家や家具だけではなく財産、知識、名誉なども生きる道具だと思っています。そういう道具をそろえることも大変な苦しみです。社会に認められるくらいの財産を貯めることも、認められるほどの知識人になることも、名誉を得ることも並大抵のことではありません。そのような道具をそろえたところでしっかり生きられると思ったならばそれは期待はずれです。なぜならば道具をそろえるために一生苦労をしなければならないからです。たとえ生きる道具がいくらかそろったとしても、人生とは何かを理解していなければ正しく生きられません。我々の社会では、資産家であったり、知識人だったり、有名人だったりしても、非常に悩み苦しみが多く、不満やストレスがたまりすぎて無茶なことをして個人的な生き方を破壊してしまう人も少なくないのではないでしょうか。
生きる道具がそろっただけでは意味がないのです。またその、生きる道具をそろえること自体も大変な苦しみの道でもあります。

 生きるということの意味を理解しておかなければ生きるために道具を使えないのです。生きるということは、不満、苦しみ、競争、戦い、失敗、失望、のような経験の流れです。その流れの中でたまに楽しみ、満足、充実感を感じるだけです。
それを理解しないで人間が生きることは不安だから、安心しようと必死になって知識や財産、名誉等々の道具ばかり集めていきます。それだけでは幸福になるわけはありません。

 生きるということは苦であること、満足を得られないものであることに納得した方が良いと思います。道具だけいくら集めても、きりがないのです。そのかわりに生きる苦しみがさらにひどくならないように、小欲知足の法則を実行した方が楽です。世界で一流になろう、人に負けてはいられない、などの無意味な概念を捨てて、平和で安心して生きるために、自分に最低限でどれくらいの道具が必要かと理解すればとても楽になります。
たくさんお金がなくても、抜群の知識人でなくても自分が得たもので満足して平安な心で生きられるならば、それが道具の正しい使い方です。 (この項目はこれで終了です)

(スマナサーラ師講義より構成しました)

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